2019年03月27日

時計仲間

    古時計愛好家
 あや.jpg
 古時計愛好家のコレクションを見ていると、その人の個性がみえて面白く、どの愛好家も時計好きである。
 勿論時計が好きだから古時計を集めるのだが、その集める時計が人それぞれ、大きな時計が好きな人、逆に小さな時計の好きな人と分かれる。
 大きな時計の好きな人は数は少なく、一点趣向の人が多く、そんなに台数を持たない人が殆どと言ってよい。
 勿論、例外な人も居るが、大抵は数は少ないもの、当然であるが大型の古時計は場所を取る、当たり前だがそれが問題だ。
 大型の時計を数多く所有は出来ない、今までに出会った人の殆どは数台の古時計で、置き場所に困るからとも言う。
   確かに大型の古時計は置き場所に困る事は必定、何台か欲しくても場所の問題もあり、そうは行かないのだと思う。
 人間の心理としては目の前の古時計が欲しくなるのは当然の事、ツイツイ買ってしまうが、その後がいけない。
 家に持ち帰ってきてからが大変、家の者には嫌な顔をされ、置き場所はないし、思案するしかないのだ。あさかい.jpg

 そんな事は買う時から分かっているが、古時計愛好家の心理りでは、目先が事が先で後の事は二の次だ。
 それで何時も失敗を繰り返すが、全くと言って反省の色がなく、同じことをくりかえりているのだと思う。
 御多分に漏れず私もその一人、何時も家族に嫌な顔をされているが、こればかりは止められない。
 逆に小さいのを好む古時計愛好家も、場所が取らないことを良い事につい買い込んでくる。
 結果は大型の愛好家と同じ道を辿り、やはり家族からはソッポを向かれて、ションボリとする事に。
 いずこも同じことの繰り返しをしているが、両方とも反省がないのも古時計愛好家の人達と思うが、私だけだろうか。
 好きな物にはツイツイ手が出、家族に受け入れられなくて四苦八苦するが、それでも止められないのだから仕方がない。







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2019年03月26日

カフスボタン

    個性を主張

SANY9433.JPG カフスボタン、それは男の主張を表に出すもの、袖口のちらりと光る一つのボタン、それが個性でもともとカフスボタンは今までの単なるとめ道具の一つとしてのもの、何の飾りもないボタンであった。
 そこには男の個性は発揮出来ず、単純な飾り気のないものは満足することなく、個性を主張し出す事に、袖口を単純にとめるものから、ちらりと見える美しさを備えたものにと変化を遂げて行く。
 初期のカフスボタンはシンプルなものが多かったようで、今までのボタンよりは個性のあるものではあった。
 しかしながら、今までのものよりは男を主張、やはり単なるボタンではなかったものであり、飾りものであった。
 そんなシンプルなカフスボタン、それが徐々に進化を遂げて行く事になり、その素材からも変化を遂げ、金属製のカフスがつくられる様に、例えば金で出来ているもの、または銀で出来ているものと進化を続ける事になる。

  SANY0536.JPGはじめはやはり貴族の男たちからかカフスボタンは始まりを見せ、金や銀のカフスが流行ることに。
 当時は金銀が高価な物であり、貴族としてのシンボル的要素の高いものであった事は確かだ。
 その素材から抜け出して、人とは違う個性を出すために、変わった素材が求められ、七宝であったり、貝殻であったり、石であったりと進化する。
 金銀に次ぐ素材は宝石、ヒスイであれ、ダイヤであれ、ルビーあれと目立つものへと進む。
 その後のカフスボタンは次々と進化、ありとあらゆる種類のものに移ることになり、個性の塊となる。
 そのカフスボタン、現在では少し下火になってしまった様で、余り見かけなくなったようだ。






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2019年03月25日

幻の陶貨

    こんなものまで

 陶貨、聞きなれない言葉の響き、戦時中日本で製造された陶器の貨幣、第二次大戦末期、日本は物資が不足、特に金属がなかった。
 この時代色々なものが金属の代用品として造られたが、最後は貨幣まで代用品で造るとは、日本も底をついた状態であった。
 金属不足は資源のない日本にとって一番の痛手、金属で無いものだ代用しても戦には勝てないことは分かっていた。
 しかし最後まで抵抗した日本、国民に大きな犠牲を押し付け、なお戦争を維持しようと画策していたのだ。
 最後に画策したのは貨幣、金属で製造していた貨幣を代用品で製造する事、奇想天外の発想であった。SANY0512.JPG
 そのお手本となったのがドイツ、1920年第一次世界大戦時に陶器で貨幣を製造していたことを知り、それを再現。
 昭和18年に陶貨製造準備委員会がつくられ、ドイツの真似をして陶貨を造ることを計画、準備に入る。
 それを進言したのが瀬戸の陶器会社、一銭、五銭、10銭の三種類を製造することを提案、検討に入ることになる。

 製造産地としては瀬戸、京都、佐賀の陶器の産地、それぞれの産地で一銭、五銭、10銭を別々に造られる。
 特に多く製造されたのが一銭と五銭、目標は一銭は200万枚、五銭は100万枚それぞれに製造することである。
 昭和20年、瀬戸は一銭を製造することを求められ、当時鐘大陶業株式会社の民間の窯元に発注、大井省造幣局、瀬戸製造出張所として陶貨を製造する。
 一銭は表に富士山を描き、裏側には桜の花を二つ重ねた図柄、同課に似せて赤い土で製造すること。
 目標、200万枚を製造すべく大量生産に入ったが、完成まじかで終戦となり、廃棄処分となったが、何故かしら現存している。
 いつの時代も、こっそりと手に入れている者が、廃棄処分であったものが現存、数的には多くはないが蒐集家の手に。











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2019年03月24日

夢二の真贋

    やっぱり好き

DSCN1850.JPG 竹下夢二、言わずと知れた有名画家であるが、実際の人物は少し破天荒な所があり、そこが又魅力と言う人も居る。
 しかし好き勝手に生きた人物でもあると言う人も、色々な評価があり、様々な事を言う人も多いようである。
 人物評価はそれぞれで、個人の主観であるから何とも言えないが、作品については文句の付け様がないと思う。
 確かに破天荒な生き方をした人物のようであるが、描いた絵は素晴らしいものと、それが大勢の意見である。
 竹下夢二の描いた絵は実にロマンチックなもの、世に言う大正ロマンそのもの、一目見て夢二と分かる作風である。
 兎に角人気の画家であったようで、色々な物に作品が描かれており、現存数も多いと聞くが、偽物もまた多いと言う。
 人気があるから偽物も多いらしく、中々素人には分かり辛く、良いと思って買っている人もまた多いと聞く。DSCN1851.JPG
 しかし偽物でガッカリ、やはり素人には真贋は分からず、相手を信用するしかないが、何処まで信用するかである。
 良く本物保障と書いてあるものを見るが、ある人がそれを信用して買い込み、良く調べてみたら何だか変、そこで鑑定して貰った所偽物と判明。
 早速相手方に抗議したが埒が明かず、結果は泣き寝入りとなってしまい、何処が保障なのかと怒りだけが残ってしまったようだ。

 これも良くある事で、余程信用のおける処から買わないと残念な事になる一例、保障の文字も信用できないのだ。
 このリトグラフ、勿論信用のある所から買い込んだもの、偽物であれば返却自在、何時でも引き取るとの事、前にも同じDSCN1852.JPGようなリトグラフを買い込んだが、専門家に見て貰った結果、本物であるとお墨付きを、そんな信用のある所だから、何時でも返却に応じてくれるから、今でもここから買い込んでいるの。
夢二のリトグラフは数も多く出回っているから、手ごろな値段で買う事が出来、その上美しいから私は良いと思う、チョットした所に掛けても、ピッタリと収まり、それでいて華やかな雰囲気に、それが夢二の良い所。
 あの独特な色使い、そしてやっぱり女性の柳腰、夢二独特のあのスタイル、如何にも大正ロマンそのものである。
 このリトグラフ一つで掛けてある壁が一気に華やかとなり、それでいて何だか落ち着いた気持ちになるのだ、他のものではこの雰囲気は出せないと思う、夢二だからこそ出来るものと思うが、私の贔屓目かも知れないが。

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2019年03月23日

何故遅れを取った

   京都千年の
 明治初期、日本の近代産業は飛躍的発展をとげ、先進国の仲間入りを果たSANY0409.JPGすべき国を上げての政策を取っていた頃、京都は近代化の遅れを取っていた。
 今まで都が置かれて来たこの地、日本の最先端であった土地、しかし東京に都が移り、この地は生甲斐をなくしていた時、近代化の波に乗り遅れる。
 一番の原因は喪失感ではないかと思われ、都が移り張り合いがなくなってしまい、前向きに時代の流を取り込めずに、ただ脱力感だけであったようだ。
 大都市の東京、名古屋、大阪は文明開化の名のもと、まっしぐらに近代化を推し進めていた時、京都はまだ時代に背を向け江戸時代のままであった。
 新政府の推し進める近代化にも目を向けず、昔の栄華を懐かしく思い、その余韻に慕っていたのだが、時代は一気に変化を遂げていた。
 逸早く東京と名古屋で西洋時計が製造されるようになるが、京都はその流れをつかもうともせず、江戸の余韻に浸っていたのだ。

 その後大阪も西洋時計製造に邁進、大都市での時計製造が発展して行くSANY0402.JPG、当時の京都は時計商も多い居て、財力も他の都市に遅れを取ることはなく、力はあったのだが、では何故乗り遅れてしまったのかとの疑問が湧く、京都は江戸時代にも和時計の製造をしていたところ、技術的にも財力的にも申し分のない土地であった筈。
 むしろ他の都市よりも財力、技術力共に先を行く土地、なのに西洋時計製造に遅れを取り、この遅れが後々に幾ら頑張っても、他の都市には太刀打ち出来なくなってしまった。
 大量生産を掲げる西洋時計製造、近代化の名のもと、国産時計普及にヤッキとなっていた他の都市、それに比べ京都は昔ながらの気風が原因か。
 後発の京都時計製造会社は名古屋から職人を雇い入れ、西洋時計製造に邁進するも、価格的に他の時計産地との競争にも負けた。
 大量製造と市場の把握、コストダウンと販売販路、このように近代的な商売に乗りおくれたのも要因、色々な条件が京都に不利に働いたのだ。




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