2018年09月23日

定番

    古時計の定番

 SANY6556.JPG古時計と言えば八角型の時計と四つ丸達磨、言わずと知れた定番の古時計だ、古時計を始める人は誰しもこの道を通る。
 八角の古時計、日本人には古時計と言えば八角型の時計と決まっていたもの、何処の家にもあった時計であり、頭の中に摺り込まれているのだ。
 何故だか知らないが、知らないうちに染み込んでいるから、古時計と聞けば八角型の時計が頭に浮かぶ、これが一般的な人。
 殆どの人が古時計と聞かれれば、躊躇なく八角と口にするもの、考えなくても直ぐに答えが出て来るから面白い。
 これは年配者になればなるほど高くなり、最近の若い人に聞いても、その答えは八角と答えが返って来るが年配者のパーセントよりは遥かに少ない。
この差は何かと言えば、最近の時計事情に原因があり、今時の時計は八角型のものは少ないのが影響しているのだ。DSCN0670.JPG
 今はクオーツの時代、電池で動く時計が主流、その形はいろいろなものがあり、八角とは限らないからであり、摺り込まれる形が其々だから。
 だから今時の若い人は古時計と聞かれても、中々八角型とは言わないもの、それ位現代の時計事情は変わって来ているのだと思う。
 年配者と若者、それぞれの時代に合った答えが返って来るから、人の頭の中に摺り込まれるものは時代によって変わるものだ。
 その古時計、八角型の時計に付いているガラスの模様、之もまた定番の柄が存在しており、年配者に聞いてみるとやはり同じ答えが。
 どんな物なのか具体的に書いて貰うと、殆どの人が菱形のような絵を描く、細かな所は多少違うものであるが、全体像は大体同じだDSCN0766.JPG
 それも簡単に描く人も居るから驚くもので、八角型の時計にハマっている模様を描かれるのだが、これもやはり記憶の中にあると言えよう。
 何げなく見て居た古時計の形は確実に頭の中に摺り込まれ、それが一気に出て来るから不思議、それは八角の時計に限った事ではない。
 人気の四つ丸達磨も同じような状態の答えが、先ず達磨時計の形はと聞けば、四つ丸達磨を描くから驚くのだ。
 勿論年配者に多いが、若い人でも達磨時計は知っているらしく、四つ丸達磨を描く、細部的に少しは違うが、殆ど四つ丸達磨だ。

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2018年09月22日

電笠は好きかと

    友人からの電話

SANY2874.JPG 携帯に友人から電話で突然電笠はは好きかと言う、「何の話だと聞けば、後で話す」とだけ、突然に電話して来てこれだ。この友人は何時でもこのスタイルで電話して来るから、別に驚きはしないが、セッカチな性格の男だと思う。人の事は言えない、私もそちらの部類、セッカチではないが早く知りたいと思うのは同じ、だから奴の事も理解できる。
 後日彼がやって来て、電笠を持参、如何したのかと聞けば、彼の友人家が取り壊しに合い、そこにあった電笠を貰って来たのだと言う。
 聞けば旧家であったが、長年空き家であったが取り壊す事に、その際電笠を外して取っていたとの事らしく、それを見つけた友人が貰って来たらしい。
 私の家に付いている電笠を何時も見ているから、そこで見た電笠を気に掛けて、その人から貰ってきたと言うのだ。
 一時期電笠はブームとなり、高い値段で売買されていた事も、しかし最近では電笠も下火になり、値段も下がった。

 別に電笠を欲しくて買うのではなく、インテリアとして使うのが目的、しかし良いものは高くて買えないから、そこそこで良い。
SANY2877.JPG 新しい物もアンティーク調のものが多く出回っているから、そちらの方を使えば使えるのだが、やっぱり古い物が良い。
 新しい物は綺麗すぎて趣が無く、気泡の入った少しくすんだガラスが良いので、新しい物は買うつもりもないのだ。
 古くて安い物でも良いものもあり、それを見つけて買い込み、家で使うくらいで、集めるつもりはないのだが。
 友人たちは何時も「お前の家は暗い」と言うのだが、彼らにしてみれば我が家は暗いと思う、蛍光灯は余り使わないから。
 白熱灯を使っているために、彼らからすれば暗いと、そして古い電笠を使っているから尚更の事、彼らの指摘は正しい。
 私に言わせれば、今の家は全体が明るすぎ、そんなに明るくしなくても良いと思うのだが、今の人は明るい方が良いらしい。
 ある人に言わせれば、今の若い人は暗いと落ち着かないとも言う事らしく、暗いのは苦手らしいとも言うのだが。 
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2018年09月21日

ノベルティー

    リアルな表現

DSCN1839.JPG 戦前戦後、瀬戸で製造された陶器、外貨獲得に大いに貢献したが、特に戦後日本の経済を引っ張り上げた事は事実。アメリカ向けの輸出が拡大して行き、その中にノベルティーと呼ばれる焼き物が大いに活躍、一躍表舞台に躍り出る事に。元々瀬戸の置物は鎌倉以前から造られていたと言われ、狛犬や人形などが手び練りで造られていたようだ。
 特に狛犬は多くの社寺に収められており、全国に残っているもので、瀬戸の焼き物を広める役割を果たしていた。 この狛犬、時代によって形を変えて造られ、どの時代に造られたものかを知る上でも役に立っている。

DSCN1843.JPG 狛犬の姿は非常に多種多様で、勿論作者の意向によるもの、独特の姿をした狛犬もあり、狛犬愛好家も多いと言う。特に古い狛犬は表情も豊かで、面白い顔をした狛犬に人気が集中していると言う、これも瀬戸ならでは。そんな狛犬も江戸時代中に入ると、さらに需要が増して社寺に多く収められ、人々の信仰の深さと結び付くことになる。
 この様にして瀬戸の置物は発達を遂げて行き、幕末になると招き猫や、福助、オカメなどの置物に変わって行く。その上、郷土人形や招き猫などが人気となり、製造するとこも多く、それだけ需要があったと言う事だと思う。

 DSCN1841.JPGそんなころ明治6年ウイーンで開催された万国博で、石膏型から置物を造り出す技術を日本の持って帰る これが切っ掛けで瀬戸のノベルティーは飛躍的に進歩することになり、石膏型が一気に導入され、今までのものよりも優れた人形や置物が出来るようになる。 この頃になるとドイツの優れた人形を研究し、瀬戸の石膏型はより細密的なものが出来るようになり、マイセンに近づいていた 明治後期には万国博に出品され、海外から高い評価を得る事となり、輸出にも拍車がかかるが小規模の生産であった 生産が大きくなるのは昭和に入ってからの事、其のころには石膏型の技術もマイセンに劣る事のないものであった。
 第二次世界大戦後、アメリカから大量の注文が入り、生産も急速に発展、工場も大型化し、海外からの注文に応じるようになる。

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 次第に置物や人形もより細密化し、何よりも大型化して行く事になるのだが、大型化すればするほど問題も大きくなる。 当然の事ロスも多くなり、焼き物がゆえに焼いて見なければ分からない事も、窯から出して見ないと何とも言えないのだ。 写真の置物、高さはさほど高くはなく、何処が難しいかと言えば、尻尾の部分であり、その長さ40センチ以上。 この尻尾が難題で、焼くまでに乾燥段階で垂れてしまう事に、そして窯に入れて焼くのだが、焼いてみると尻尾が垂れたり、ヒビが入ったりと難題であった 全体のクジャクの大きさは70センチと大きく、これだけの置物を焼くには技術的にも難しく、ロスも出るのである。
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2018年09月20日

風鎮

      掛軸には必要

SANY6615.JPG 床の間に掛かる掛軸、その掛軸に必要とされる物に「風鎮」があり、掛軸を風などから痛まないように、掛軸の軸にぶらされて使用するもの。
 風鎮とは、現代人には馴染みの薄い物かもしれないが、床の間に掛ける軸には必要な錘、風やしわから守る為に考え出された錘とも言うべき物である。
 掛軸が中国より渡来するのは、平安時代とされているが、当時は仏教の曼荼羅図を床の間に掛け、儀式用に使用されていたようで、一般庶民には遠い物であった。
 室町時代に入ると、建築様式が変わり、床の間が出来るようになり、この様な形式の建物が多く作られる様になり、床の間に飾る掛軸が必要になる。

 この掛軸の普及により、掛軸を風から守る為に風鎮が作られ、徐々に広まり、やがて掛軸を飾るときには必ず風鎮を下げるようになり、需要とSANY1728.JPG共に風鎮も発達する。
 初めは単に風から掛軸を守る為に作られた、シンプルな風鎮であったが、やがてあちこちで造られるうちに、装飾性の高い物ができるようになる。
 この風鎮、風やしわを伸ばす為に考え出された物だが、その後装飾性の高い物となって行き、季節感のある題材を取り入れ、また其処の主人の趣味や美意識まで敏感に反応する物となって行く。
 風鎮1つ取り上げても、その人の美的感覚が試されると同時に、その場の来客者の心を慰める役目も果たす、重要な演出する物であり、様々な衣装が施され、派手になったのであった。
 写真は、今頃の季節に合わせて使用される風鎮、形も図柄も色々とあり、又産地によっても材質や色彩の違いがあり、季節感と合間って種類が豊富である。
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2018年09月19日

明治の時計店

    今欲しいものが
 SANY6663_1.JPG明治時代の時計店、どの様な状態であったのか知りたいのは誰しも同じ、しかし中々当時の資料が少ない。
 外形は写真などでも紹介されているから、探そうと思えば探せない事はないが、店内の様子は中々難しい。
 当時の時計商はどの様に時計を販売していたのか、興味のある人が多いと思うが、実態はやぶの中である。
 少ない資料の中、店内の写真もあるにはあるが、小さくて全体の様子が分からなくて、漠然として映っているだけのもの。
 今回の写真はそんな中、興味の多い資料と思われ、今でも欲しいと思う時計が多く写っているもの、よだれが出そうである。 そんな時計商、我々が想像していた以上に外国製の時計も多く、ビックリする内容、流石に明治の時計商だ。
 当時の時計商は莫大な利益を得ていた事はよく知られており、服部金太郎の様に成金の店主が多く存在したのだ。
 
 当時の時計商と一口に言うが、現在で言う商社的存在であったようで、西洋時計だけを扱うのではなく、勿論大小の違いはあるが、総合的な商品を扱い、幅広い消費者の要求に答えて、数多くの商品を扱っていたのだ。
 そんな店内の写真を良く見ると、こんな物までと思うものが扱っていたのかと感じられ、興味深い事実である。
SANY6658.JPG 我々がえがく時計商は想像以上時計の種類を多く扱っていたものと思う、例えば掛時計や置時計、懐中時計、日時計など種類も様々な時計。
 それが当時の時計商と言うイメージであるが、実際の写真を見るに、その思いは砕かれてしまう事になる。
 確かに壁いっぱいに掛け時計が陳列されている事は確か、頭に描いていた通りの光景、これぞ時計商と思う。
 しかしよく見ると、手前に自転車が写っているのにビックリ、時計とどんな関係があるのかと思ってしまうのだ。
それだけではない、陳列台の上には蓄音機が並んでいる事だ、楽器屋では無い筈であり、何で蓄音機なのかと。
 見れば見るほど不思議な光景であるのだ、テーブルの上には扇風機らしきものが、その光景はヤッパリ意外で壁の時計の中には今欲しい時計が数々あり、大きな時計商は思っていた以上に商品が多い事に驚くほかはない。



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