2018年12月14日

忠臣蔵

    その日が

SANY8626.JPG 時は元禄15年12月14日未明、本所松坂町の吉良邸に赤穂浪士が討ち入り、日本人は忠臣蔵が好き、暮れになるとこの話が出ない事はなく、昔から12月は忠臣蔵と決まっているかのようだ。
 そもそも忠臣蔵とは何か、芝居の演目の一つとして知られている物語、仮名手本忠臣蔵がその一つと言われている。
 江戸の人は芝居が好き、はじめて忠臣蔵が演じられたのが討ち入りから40数年後、それも実名ではなく仮名を使って演じられている。
 そこには幕府に対して遠慮があり、あからさまにする訳にも行かず仮名をやむなく取り入れたようである。
 これが江戸で大当たり、拍手喝さいで迎えられたと言われ、その後各地で演じられ忠臣蔵は日本全国に広まって行く。
 芝居は浅野内匠頭が善人で吉良上野介が悪人とされ、主君の仇討ちを苦労の末達成する物語、これが忠臣蔵の芝居だ。SANY8623.JPG
 では本当の事はどの様なものなのか、詳しい事を知る人は少ないようで、芝居が本当の事と思っている人が多いと聞く。
 史実では赤穂事件とされ、忠臣蔵とは言われていないのも知らない人が多く、意外に思う人も多いだろう。

 この事件、本当の事は未だに闇の中、史実はどの様であったのか、何故内匠頭が人情に及んだのか、やっぱり不明である。
 色々と取りださされているが歴史学者の間でも意見が分かれており、浅野内匠頭の行動は解明されていない。
 分かっているのはその後家臣たちが吉良邸に討ち入り、仇討本懐を成し遂げた事、当時は集団を組んで徘徊する事はご法度であった。
 それを無視して集団で討ち入り、吉良の首をはねた事は万死に値するもの、これが当時の常識であったと言う。
 体の良い仇討とすることは許されなかったのが現実、それを無視して行動した彼等、庶民は拍手喝さい、幕府に対しての不満の捌け口を求めたのだ。
 主君に対して忠節を尽くす、これが武士の本懐、だから江戸の人達に受け入れられたのであろうが、結果は全員切腹、結末は哀れでもある。




posted by kodokei at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記