2019年03月23日

何故遅れを取った

   京都千年の
 明治初期、日本の近代産業は飛躍的発展をとげ、先進国の仲間入りを果たSANY0409.JPGすべき国を上げての政策を取っていた頃、京都は近代化の遅れを取っていた。
 今まで都が置かれて来たこの地、日本の最先端であった土地、しかし東京に都が移り、この地は生甲斐をなくしていた時、近代化の波に乗り遅れる。
 一番の原因は喪失感ではないかと思われ、都が移り張り合いがなくなってしまい、前向きに時代の流を取り込めずに、ただ脱力感だけであったようだ。
 大都市の東京、名古屋、大阪は文明開化の名のもと、まっしぐらに近代化を推し進めていた時、京都はまだ時代に背を向け江戸時代のままであった。
 新政府の推し進める近代化にも目を向けず、昔の栄華を懐かしく思い、その余韻に慕っていたのだが、時代は一気に変化を遂げていた。
 逸早く東京と名古屋で西洋時計が製造されるようになるが、京都はその流れをつかもうともせず、江戸の余韻に浸っていたのだ。

 その後大阪も西洋時計製造に邁進、大都市での時計製造が発展して行くSANY0402.JPG、当時の京都は時計商も多い居て、財力も他の都市に遅れを取ることはなく、力はあったのだが、では何故乗り遅れてしまったのかとの疑問が湧く、京都は江戸時代にも和時計の製造をしていたところ、技術的にも財力的にも申し分のない土地であった筈。
 むしろ他の都市よりも財力、技術力共に先を行く土地、なのに西洋時計製造に遅れを取り、この遅れが後々に幾ら頑張っても、他の都市には太刀打ち出来なくなってしまった。
 大量生産を掲げる西洋時計製造、近代化の名のもと、国産時計普及にヤッキとなっていた他の都市、それに比べ京都は昔ながらの気風が原因か。
 後発の京都時計製造会社は名古屋から職人を雇い入れ、西洋時計製造に邁進するも、価格的に他の時計産地との競争にも負けた。
 大量製造と市場の把握、コストダウンと販売販路、このように近代的な商売に乗りおくれたのも要因、色々な条件が京都に不利に働いたのだ。




posted by kodokei at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記