2019年08月12日

盆踊り

    今年も始まった

 SANY0286.JPGこの地域の盆踊り大会がまた始まり、夕方から聞こえてくる太鼓の音、暑い風に乗って聞こえて来る。
 暑い日中から少し涼しくなる夕方、盆踊り大会がはじまるのだが、人が多く集まればやっぱり暑い、それを吹き飛ばすような太鼓の音、何故かしらこの音を聞くと涼しく思えるのは不思議、心が浮き立つためだろうか。
 人の心に響く太鼓の音、この太鼓の音は何で心に響くものだろうか、やっぱり不思議なもの、しかし心は躍る太鼓の音とは、そんな気にしてくれるものなのか、あのリズムがその様にさせるもの、それが太鼓だと思う。
 盆踊りと言えば櫓、高い櫓を組み、その上で太鼓をたたく、これが盆踊りのスタイル、そして重要なのは提灯、祭りと言えば太鼓と提灯、二つとも祭りには欠かせないものであり、どちらか一つ欠けても雰囲気が台無し。
 盆踊りと太鼓ね櫓と提灯、あとは紅白の垂れ幕があれば最高の会場となるのだと思う、昔から伝わってきたスタイル。

 日本全国で盆踊りはこの時期盛んに行われるが、これも先祖の霊を迎え、庶民が踊りを踊った事に始まる。SANY1663.JPG
 盆踊りの起源は色々な説が言われているが、盆踊りは一般庶民の楽しみでもあったようで、藩主もこの盆踊りを奨励したと言われる。
 庶民が不満を持たないようにと、捌け口の一環として盆踊りを利用して、不満を和らげたとも言われる。
 盆踊りとして大規模なものは岐阜県郡上の盆踊りが有名、その規模と人出は他地域を圧倒しているのだ、その規模はやっぱり日本一、兎に角人が多く数万人と、誰でも参加できること、それを助ける人々が多くいる事、哀愁にみちた郡上節は藩主自ら庶民と楽しんだとも言われ、それを現代まで受け継がれているのだ。
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2019年08月11日

岐阜提灯

    美濃和紙で造る
SANY1713.JPG
 提灯、歴史は古く平安時代には既にあったとされるが、一般庶民の使うものではなく、宮中で使われた。
 やはり中国よりの伝来もの、今の提灯とは形は少し違っていたもので、その後神社やお寺でも使うようになる。
 岐阜で提灯が製造されるようになるのは慶長年間、この頃から岐阜で提灯が製造され尾張藩に献上されていた。
 岐阜提灯は竹ひごが極細で繊細の造り、その上に張りと呼ばれる美濃和紙の薄い紙を張り付ける。
 この薄い美濃和紙は丈夫でありながら、灯りをともすと光が柔らかく透けて見え、上品さが引き立つ提灯。
 その提灯にやがて美しい絵が描かれるようになり、ますます洗練されて行くことになるが、現在のものとは少し違っていた、現在の姿となったのは宝暦年間の頃だと言われ、この頃には非常に繊細な提灯の姿となる。SANY1706.JPG

 職人たちは競って極細の竹ひごを使い、ますます繊細さをまし、摺り込みと呼ばれる技術を用いる事になる。
 伊勢型紙を用いて図柄を選定、この型に絵具を摺り込んで行き、ぼかしなどの技法を用い細かな絵を描いた。
 この摺り込まれた絵は灯をともすと、摺り込まれた絵が浮き上がり、岐阜提灯独特の雰囲気を醸し出す。
 出来上がった提灯は尾張藩を通して将軍家の献上品として江戸に運ばれ、岐阜提灯の名を全国に広める事になる。
 岐阜提灯は形も独特なもの、ウリ型をした上品な形は上流階級に支持されて、高級品の名を高める事に。
 しかしまだ多くは製造されず、まして一般庶民の手の届くものではなかったが、明治に入り明治天皇が岐阜に行幸された折り、岐阜提灯を掲げて迎え、この事が全国に広まり、一般庶民も憧れの提灯として広まることになり、その後岐阜提灯は大量に製造されることになる。

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2019年08月10日

明治の教科書

    時計の紹介

 新政府は改暦後、学校において時計の紹介や読み方について詳しく勉強さSANY4238.JPGせているが、それは親よりも早く時計に接する事だ、親よりも時計がよく分かった。
 新政府は外国から新たに西洋時計を大量に輸入、日本各地の公共施設に配布、近代化を推し進める意味で時計を利用した。
 勿論、役所の時間は改暦後、西洋時間となり、就業時間をキッチリと定め、時間管理を厳しくする、その一環として教科書に時計の解説を定め、子供たちから西洋時間に慣れさせるべく、教育を行ったのだ。
 当然、子供たちの方が親よりも早く西洋時間に慣れ、時計も身近なものとして接していたが、当時時計は高価であり、親たちは余り時計に接していない。
 公共施設には時計が置かれ、西洋時間となっていたが、一般庶民は昔のままの生活を続けていたのである。
 本当の意味で庶民が時計と向き合うようになったのは明治中期、一般に西洋時計が浸透し始めてからの事。

 面白い話も残っており、子供たちは学校で読み書きの学習をしているから、当然読み書きは出来るが、しかし親たちは字が読めない人も居たとの事。SANY4245.JPG
 当然、時計も時間が分からない人が居たのだと思う、それに引き換え子供たちは時間も正確に読めたのであろう。
 子供が親に時計の読み方を教えたと言う、そんな冗談みたいな話も、事実あちこちで当時は展開されていたようだ。
 嘘みたいな本当の話し、子供たちの方が逸早く文明開化の先駆けを担った事は確か、其れもまた新政府の狙いでもあったようだ。
 近代化を推し進めるのには若い力が必要であり、頭の固い大人よりも、柔らかい頭の子供の方が早く吸収するからである。
 写真は明治時代に小学校で使われていた教科書、その中の時計を紹介している文章、色々な時計をイラストにして解説をしている所、実際の時計を図にして、何時何分の読み方を一つづつ丁寧に教えている事だ、これにより子供たちは時間を正確に読めるようになる。
  
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2019年08月09日

うどん

      日本3大うどん

SANY7992.JPG 麺類には拘りがあり、自分好みの麺を求めて全国食べ歩いた事も、行く先々のご当地麺の美味しい所を探しながら、兎に角良く回ったものだ。
 その多くは蕎麦が主体で、蕎麦の美味しい所を求めて北から南と、そんな訳で大抵の全国のそばを食べ歩いたと思っているが、日本はまだまだ広いもの。
 まだ食べていない蕎麦が多くあると思っているのだが、これからもそれを求めて食べ歩きたいもの、美味しい蕎麦は何処に行けば良いのか。
 蕎麦の歴史は中々難しくて、私の知っている限りでは木曽の定勝寺の古文書による、戦国時代のものが現在の時点で最も古いものだと思う。
 寺の改修時に蕎麦切りを振舞ったと書かれた古文書、これが現在確認されている蕎麦切りの事実を伝えた証拠、この辺りが蕎麦切りの発祥の証しだと言う事。
 その他の地域のものは、言い伝えだけのシッカリとした立証に基づいたものではない事から、木曽地方が蕎麦切りの発祥地とされている。
 この木曽から信州北部へと蕎麦切りは伝わり、信州が蕎麦切りの盛んな地域となり、その後全国に伝わり、現在のような全国的に蕎麦が食べられる事となる。

 一方、うどんもまた中国より伝わった食べ物と云われ、僧侶によって広められたとも言われるが、色々な説も存在しており、発祥地も数々ある。
 日本3大うどんとは、讃岐うどん、名古屋のきしめん、秋田の稲庭うどん、この三つが日本の3大うどんと呼ばれているもの、
 今回の稲庭うどん、秋田湯沢で作られたうどん、その歴史は1600SANY7994.JPG年代に遡ると言われ、古くから作られてきたようだが、一般の食べ物ではなかったとも言われ、上流階級のものであった。
 一般に食べられるようになったのは明治に入ってからとも云われるが、その歴史はやっぱり古いもの、油を使わない乾麺であり、うどんの中に空気を含ませる独特の製造方法。
 一子相伝の秘伝で製造されたうどんだと云うが、その喉越しは滑らかと腰の強いうどんで、1度食べると止み付きになる美味しさ、良く角館で食べたものだった。
 讃岐うどんとも違い、少し細い面、冷麦よりは太いが、やっぱりあの感触は冷麦とも違うもの、稲庭うどん独特の腰と味、何時食べても旨いうどんである。
 稲庭うどんの特徴は柔らかいが腰があり、何とも言えないあの喉越しにあると言って良いが、あれはうどんの中に空気の層が入れてあり、茹で上がった後の喉越しにも影響を及ぼすのだと言う。









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2019年08月08日

蕎麦

   蒸籠と笊

SANY0504.JPG 蕎麦、日本人に親しまれてきた食べ物の一つ、古くは古墳時代に遡ると言われ古墳から発掘されており歴史は長いとも言われている。
 只、蕎麦と言っても現在の食べ方ではなく、蕎麦の実をそのまま食べていたと言われ、その後茹でて食べていた様だとも言われている。
 遺跡からは数々の証拠が出てきており、やはり古くから食べられていた様だが、主食として食べられたのではないと言う。
 その後中国より渡来してきた食べ方をするようになるのは奈良時代からだと言う、しかしこの当時も現代の食べ方とは違ったものであった。
 蕎麦の実をふづして粉状にしたのは室町時代になったからだと言う、うどんの伝来とも関係しているらしく、詳しい事は分かっていない。
 食べ方としては蕎麦の実を粉状にしたものをお湯で溶き、蕎麦がき状態にして食べていたのではないかと言われている。

 当時も上流階級の食べ物ではなく、下々の人々のSANY0586.JPG食べ物とされていた様で、雑穀米の一つであったが飢饉用でもあったらしい。
 そんな蕎麦の食べ方、時代とともの変化して行き、現在の形になったのは江戸時代になってからと言う、蕎麦がきなどで食べていたものをうどんと同じように棒状にした。
 蕎麦切の始まりで急速にこの食べ方が全国に広まり、庶民に受け入れられそれ以後一般の食べ物として普及したもの。
 当時は蒸籠で蒸したものが主流、つまり茹で上げたものではなく蒸して蒸籠のまま客に出していたもので、現在のようになったのはその後の事。
 蒸籠で出していた時と茹でて笊で出した時とでは少し時代が違うが、後世には蒸籠で出す処と、笊で出す処に分かれて行ったと言う。
 その名残で蒸籠と笊の名前が付いているのだと、そんな時代の流れが蕎麦の名称にも影響して、現在に至っているが、笊でも蒸籠でも蕎麦の中身には関係なく蕎麦切である。

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2019年08月07日

流行とは

    何時の時代でも

SANY3010.JPG 流行とは恐ろしいもの、あっという間に世間に広まり、何故かしら人々に受け入れられ、浸透して行くものなのだ。
 老いも若きも流行には弱いもの、何時の時代も同じ事、昔から流行病の様なものと言わるくらい伝わるのだ。
 昨今、車など来年の流行のデザインが紹介され、それを見ると各社同じような物を造り出している事に気付く。
 車で言えば全体のラインとかライトの形とか、テレビや電化製品も又同じようなものが販売される予定だ。
 そんなもののデザインを見てみると、何処となく良く似たもの、それが流行だと言わんばかりに同じだ。
SANY2836.JPG
 勿論商売であるから当たり前と言えば、それで終わってしまうが、それでも真似ではないと主張するから面白い。
 ある車の展示会でテレビの司会者が「何故良く似たデザインではないか」と聞いたことがあるが、その答えは「まったく似てません」と主張していた。

 「わが社独自のデザインで、他社とは関係ないものです」と力説、しかしどう見ても良く似たもので、素人でも察しが付く。
 それが流行と言えばそれで結論は出ているが、それを良しとして受け入れる我々もおかしいと思うが、それが流行か。
 時計の世界でも同じような物であり、明治以後数々の流行を生み出してきたが、面白いように各社が同じものを出しているのだ。
 SANY3014.JPG例えば時計のガラス絵に女性の姿を描いたものが出れば、ここぞとばかりに各社同じものを製造して市場に送り出す。
 写真の時計、同じ時期に製造されたもので、各社から出された時計の一部、面白いのはどの時計にも馬の絵が描かれている事だ。
 これは勿論アメリカ製の時計の物をコピーしたもの、そのデザインの時計が売れ出し、日本の時計製造会社もこぞって、その姿の時計を造り出したのだ。
 写真で見て何処が製造した時計なのか、サッパリ分からないもので、良く見ても同じような絵が描かれている。
 同じ時計ではないのかと、逆に質問されるくらいに良く似ているもの、縁の図柄が微妙に違い程度。
 果たして皆さんは何処の時計か判断が出来ますか、ズバリ当てられたら博士、それがどれだかサッパリだ。
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2019年08月06日

すぎだま

    新酒の出来

 良く造り酒屋の軒先に、茶色の大きなボール状のものが吊るされているのを見たことがありますか、昔は殆どの造り酒屋の軒先には掲げられSANY2911.JPGていた。
 最近では余り見られなくなったが、昔ながらの杉玉を軒先に吊るしているところもあり、ここが造り酒屋と分かるようになっている物、この杉玉、名前を「酒林」と言うそうな。
 本来の意味は酒の神様に新酒の出来お祈りして、杉の穂先で大きな玉を作って、軒先に吊るして酒の神様に捧げたもので「酒林」と言われる物だ。
 青々とした杉の葉でボール状の玉を作り、店の軒先に吊るしていたが、本来の意味よりも新酒が出来た合図みたいになってしまっているが、元々は奈良酒神大神神社の三輪山の杉で、杉玉を作り神様に捧げたものだ。

 酒神大神の杉は神聖な物とされ、その神聖な杉の葉で作られている杉玉であるから、ご利益があるとされ、造り酒屋の軒先に吊りし神に祈ったもの。
 造り酒屋の看板でもなく、毎年新たに作られるのが本当の形、しかし現在では酒も杉の桶で新酒は作らず、まして杉玉を毎年作る造り酒屋はなかなか無いと思う、時代だと言ってしまえば其れで終わりだが、新酒の出来は人間の力で出来る物ではなく、酵母の働き如何に掛かっているもの、人の力で無いからこそ、酒神大神に御願いするのだ。

  極 楽 は  何 処 の 里 と 思 い し に  杉 葉 立 て た る  又 六 が 門
  
 そんな風習も、近代的に酒を作るようになり、神の存在を忘れてしまったようなもの、日本人の持って生まれた優しい心は、既に失われて行ったのか。
 現代経営の酒造りには、酒神大神神社の存在は忘れ去られて、商売優先の厳しい世の中になったしまったらしく、風習も忘れ去られようとしている。
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2019年08月05日

見た目と違う

    球体の時計

DSCN0281.JPG ボール型の置時計、その仕組みはどんな風になっているのかとの質問が多くあったが、そのままになってしまった。
 以前に紹介した時はさほどでもなかったが、その後質問が多くなり今回その答えをしなくてはと思い、置時計を出して見ることにした。
 私も分解して詳しく見た事はなく、手に入れてからそのままに置いてあったもので、別に疑問も持っていなかった。
 只、質問されると知らないとは言えなくて、詳しい所は濁して答えていたが、自分も知らない事にやばいと感じていたのは確か、そこで今回分解して見る事にしたが、そんなに難しい組立ではなく、簡単に外れるような設計に自分も驚いた。
 普通の時計だとネジを多く外さないとカバーが外れず、何本かのネジを外し、後からネジを探す羽目にもなったが、それが普通の時計の仕組み、この時計思っていたよりも簡単で、ネジ一個で外れる事にビックリ、メンテナンスにはうって付けの設計だ。

 置時計はこの様に簡単に外れなければ、素人にはめんどくさくて、DSCN0287.JPGメンテナンスに苦労する事になるのだがそれがこの時計には無い。
 これを設計した人はその事をよく知っている人、素人にも簡単に外せ、メンテが出来るように、有り難い設計をしたものだ。
 まず質問の多くはネジが何本ついているのかとの事、結果は一本だけ、それさえ外せば後は簡単に外れて行くのだ。
 機械は普通の物と同じ形式の置時計の簡単な機械、ただ長針と短針の長さは異常に長い、当然だが球体の形だから、中心から距離があるものだから長くなっている。
 勿論ネジを巻く方も長い心棒が使用してあり、前後に長く突き出している形式、種明かしをして見れば簡単な事だが、球体になっていると、どんな仕組みかと疑問に思ってしまう。
 写真左右の外側を一体化するには、前面に付いている突起物と、後部に付いている切り込み部分をスライドすれば結合完了、機械だけは三本のネジで前面の本体と事てされているので、このネジが一番多いネジ、兎に角簡単に設計されている時計だと思う。
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2019年08月04日

堀田版時計絵図

    色々な人物が

DSCN0295.JPG 堀田版時計絵図、人気の版画であり古時計愛好家から信頼を集めているもの、多くの人が一つは所有している版画である。
 私も知人から紹介て貰いか鈴多くの版画を所有し、その都度展示会に展示していたが、その度に是非とも譲って欲しいと懇願された。
 愛好家からは伊藤深水のものが良いと評判で、深水の版画の前でこれが欲しいと懇願させ、結果は譲る羽目になってしまった。
 そんな事で深水の版画は数が激減、今は数点のみとなり、逆に之では展示に差し支えると、又探し出す事になってしまった。
 その時は懇願され、断るのに必死であったが、押しの一手で来られ、結局は根負けして譲る事に、それも買値よりもはるかに安く。
DSCN0298.JPG
 何でそんな事になったのかと言えば、会場では多くの人が居るために、金銭の事は余りしたくないので、結果はその様になってしまう。
 自分なりに情けないと思うが、それもなんかの縁と思い、自分でも若い頃はそんな事をしていた記憶があり、気持ちも分かるからだと思う。
 堀田版は伊藤深水のほか、金森や川上、そして神崎などの先生が手掛けられたものが、時代と共に作者も変化して行った様だ。

 私の一番好きな物は和時計が背後になる、伊藤深水の版画とフランス人形が描かれたもの、深水の力量が一杯あふれたもの。
 やはり堀田版の絵図は深水物が一番、特に芸者の艶やかさが飛び抜けて良いもの、量産品とは思えないほどの出来だ。DSCN0297.JPG
 今回の版画は昭和59年の版画、神崎温順画伯の版画、西洋の時計売り、肩に担いで時計を村々に売り歩く姿を版画にしたもの。
 この姿の時計商は色々に人が描き、色々に文献にも見にする事があるが、その人その人の描き方が違う、そこが面白い所でもある。
 実際にはどけだけの時計を担いで行商していたのか、重い時計であるから、そんなに多くの時計を担いで歩けないと思う。
 昔の人は良く歩いて村々を回っていたと思う、それしか交通の手段がなかったからだとしても、大変な仕事であったろうと思うが。
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2019年08月03日

毎月が勝負

    話題が色々と

 毎月連載している小さな蕾、今回で69回となるが長い様で短い期間であDSCN0599.JPGったよう、はじめた頃はそんなに苦労しなかった。
 もっとも長く続くとは思っていなかったし、さしあたって1年やれば良いと、簡単に思って引き受けたのだが、次々と原稿が進むうちに、次第に文章が出てこなくなり、同じような文章になり出し、これではいけないと思う。
 簡単に引き受けてしまった事を次第に、「気楽に引き受けた事に後悔しだし」とつぶやくようになり、それは自分が簡単に考えていた事、短い文章であり、そんなに苦労する事もないし、1か月ごとだからと思っていた。
 しかしやって見ると次第に事の重大さに気が付き、読者がいる事にプレッシャーが募り出し、何時の間にか文章が出てこない事に。
 短い文章で簡略的に伝える文章をと思うが、それがなかなか出てこなDSCN0602.JPGくて、次第に焦り出す事になるのだが、一つの時計について事細かく書けばよいのだが、短い文章でしかも分かり易くとなると、これが意外と難しい事になる。
 専門的な事を書けば簡単と思っていた時は良かったが、読者は時計に関しては素人、そんな人達に分かるようにと思うと、やはり文章が出てこない。

 そんな事を思い出したら、ぴたりと文章が出てこなくなり、その先が進まなくなったしまい、どうしたら良いかと思い出す、すると益々出てこなくなり、時間が迫ってくれば尚更な事、早く書かなければ締め切りに間に合わなSANY0469.JPGいと焦り出す。
 幾らでも時計の事だから簡単に書けると思っていた自分、しかしそんなに簡単ではない事に気付きだし、これで良いのかと何回も書き直す事に。
 書き直せばするほど益々ダメに、こんな事は夢にも思っていなかった事に、小説家とは大したものだと思い出す事に。
 何であんなに簡単に文章が出て来るのか、それも専門的な事がすらすらと、それに引き換え自分は全く出てこないから。
 当たり前だが私は小説家でも専門職でもない只の人、そんな自分が書けるはずもないとつくづく思うように。
 その上、同じ文章にならない様にと思えば思うほど、良く似た文章になるから不思議、これも素人のなせることなのか。
 そんな思いで6年が過ぎてしまったが、今思うと、これで良かったのかそんな事を思いつつ原稿を書いている。




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2019年08月02日

麦藁細工

    懐かしい物 

 SANY1025.JPG麦藁細工、麦の茎を天日でかわかし、其れを素材として虫籠や動物を作って湯治場のみやげ物として売ったのが始まりとされており、その歴史も古い。
 東京大森宿で江戸中期麦わらを五色に染め、それを箱物に貼り付け細工物として、東海道を行き交う旅人にみやげ物として売り出したのが始まりとされ。
 一方兵庫県城崎温泉も同じ頃、因州(現在の鳥取)人で半七なる人物が城崎温泉に当時湯治に来ており、半七は湯治の代金を得るために麦わらで細工物を作り湯治客に売り出した。
 それが評判を呼び、やがて箱物と称せられる細工物を作るが、その技術を何処で習得したかは不明であるが、東京の大森宿の麦わら細工を、半七が知っていたとすれば理解できよう。
 技術経路は兎も角も半七が城之崎温泉で麦わら細工を作ったことは確かだ。
SANY9623.JPG
 城崎温泉のおみやげ物として麦藁細工は定着して行き、商品構成も徐々に多く特に箱物は手が混んでおり、麦わらを立てに裁断して平たい物にし
て、色々な箱に貼り付けてゆく。
 細かな図柄になると彩色された麦わらも細かく、量も多くなり繊細な技術が要求されるが、その割には土産物としての評価しかなく、芸術品として認められなかった。
 現在では東京の大森では、麦藁細工を作る職人はいなくなり、兵庫県城崎温泉の麦藁細工が唯一の物、職人さんも現在は5、6人しか存在しなくて、将来存続が危ぶまれている。
 写真の麦藁細工は土産物の普通の物、特に細部に手の混んだ物ではなく、安い細工物であるが何処となく懐かしい雰囲気を持っている出来上がり。
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2019年08月01日

染付けの香炉

    香 り 高 く

 SANY1481.JPG瀬戸の染付けは色々な物に施されているが、皿や茶碗、テイブルや灯篭、タイルや瓦、電気器具まで染付けはなされ、色々な物に施す事によって、更に普及していった。
 一般に染付けと言っても、雑器から高級器まで様々な物につけられており、其の用途によっても図柄を変えて染め付けられてゆく、職人の感性ともいえるもの。
 雑器であれば、其れを使う人にあった模様を選択、更に物の大きさによっても図柄を変更、この様に臨機応変が染付け職人の腕の見せ所でもあったようである。
 時代時代によって、当然のこと流行も存在し、其の時々によって変更するのも職人の感性であり、敏感に世間の流れを読み取っていたのも、彼らが単に絵付けをするだけの職人で無かった証でもある。

 高級器における彼らの腕の見せどころ、其の器にあった図柄を選択するのは常識であり、それよりも器が使われる用途を見極め、物語をも認識した上に絵付けをしたようだ。
 其れは、短歌であったり、芝居の一幕であったり、物語の一場面であったりと、その物を知らない職人には描けない図柄を、当時の絵付け職人は行っていた。
SANY1483.JPGSANY1485.JPG 写真の香炉はそんなに古くなく、実用的なものだが、細部的に見てゆくとそのものに対する職人が、知識を持った上での作業をされていることが分かる。
 獅子頭をつけた蓋、3本の長く伸ばした足、胴体部分の丸くなったところの図柄、一つ一つが用途を分かった上で、染め付けられていることが良く分かった物。
 床の間に於いて香を炊く為の物、洗練されたものでなければ雰囲気が台無し担ってしまうもの、格調高い染付けで無ければならない物だ。
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