2019年09月09日

蕎麦切りの発達

    上級武士に

 江戸中頃SANY0566.JPGになると、寺方の蕎麦切りが発達を遂げ、田舎蕎麦から次第に高級化し、更科蕎麦なるものが登場し、武士階級のしかも上流武士に蕎麦切りを精進料理として寺方が接待する事により、蕎麦切りはより高級化する事になる。
 記録によると3代将軍家光が上野寛永寺にて精進料理を食した中、蕎麦きりが出されたとの記録が残っているようで、田舎蕎麦が高級化し既にこの頃より上級武士の間でも食されていたようだ。
 その後将軍家に献上する蕎麦なるものが出始め、蕎麦きりが上級武士階級の広い範囲まで広がりを見せていた様子が伺え、更に蕎麦切りは洗練されて行ったようである。
 一方、庶民の間でも蕎麦切りは広がりを見せ、夜鳴き蕎麦の様な屋台ではなく、一軒の店として蕎麦屋が進出して来出し、江戸の町にうどん屋と肩を並べるまでに成長してゆく。
 当時江戸では急激な発展に伴い、地方からの流入者が多くなり、建設業などに従事するものが増大、当然食の方も発達を遂げて行く事になる。
 それに一役買ったのが蕎麦きり、早く食べれて、安くて、旨い、それが又労働者たちに受け、江戸中に蕎麦屋が進出し、彼らの要求に応じたのである。

 味のほうも、この頃よりカツオ出汁の汁が出始め、「SANY0545.JPGなまぐさ汁」と呼ばれ、寺方の味噌や辛味大根汁と区別され、下品な汁の食べ方と呼ばれていた様だ。
 しかし、この 「なまぐさ汁」が序藷に庶民の間で人気を博してゆく事となり、「かけそば」なる物はカツオ出しで取った汁で食べられるようになり、寺方蕎麦と一線を隠した形となる。
 ご存知の忠臣蔵に出てくる、討ち入りの前、蕎麦屋の二階で一同が会する場面が描かれているが、まだ此の頃は蕎麦屋は出来て居なかったようで、芝居の時代考証が間違っていたようだ。
 そもそも、蕎麦屋の二階に約50人もの人間が集結するのに、人目につかない筈が無く、ましてそんなデッカイ蕎麦屋など当時は無かったし、江戸末期頃にようやく作られたようである。
 映画の世界では、蕎麦屋に集結した浪士たちが、戦いに行く前に身支度をしている様子は、一般の家屋より蕎麦屋の二階が如何にもこっそりと支度している様子が似合うかもしれない。
 其れぐらい蕎麦屋は庶民の間に普及していた事の裏ずけでもあるようで、赤穂浪士の面々が庶民に受け入れられたひとつの要素でもあり、当時は無かったとしてもそれは其れで良いのかも。
posted by kodokei at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記