2019年12月14日

忠臣蔵真実は

   忠臣蔵始末記
 SANY0434.JPG
 映画47人の刺客、これは忠臣蔵を現代的に解釈したもの、衣装は忠実に再現、昔の伝えられた姿とは違う、真実らしく見え、この方が史実に忠実といえ、やはり芝居の姿とは違いがある。
 元禄15年12月14日赤穂浪士47士吉良邸に討ち入り、世に言う赤穂事件であり、忠臣蔵討ち入りの事実、日本人好みの仇うちである。
 時は元禄、武士の世も平穏無事で戦はなく、武家社会もマンネリ化を来たしていた時期、突如として起こった仇うち事件、日本中が大騒ぎ。
 300年を経過した今でも忠臣蔵として語りつくされて来たもの、日本人の好きな、艱難辛苦に耐え、主君の仇討ちをしたこの事件であるが、しかし、この事件の真相は藪の中、果たして浅野内匠頭が人情に出た真相、何故吉良上野介に切りかかったのか、しかも殿中での事、ご法度を無視して。SANY0441.JPG
 この真相が明らかになっていないのは、当時素早く処理をしたので、事実確認が疎かであったのと、幕府が処理を誤った事に由来するとも言われている。
 実際に事件のあった松の廊下は、昼間でも薄暗くて、相手をハッキリと定められるのは近距離でしか発見できない状態であったから、浅野が吉良に切りつけたのは至近距離であった。
 にも拘らず短刀で切りつけるとは武士としておかしい、本来なら刺すのが当たり前、切りつけても命は取れず、武士として聊かの疑問が残る。

 浅野が武道に対して素養がなかったのか、それとも吉良が逃げ回った為、刺せれなかったのか、疑問だらけでもあるのだが、事実は切りかかったようだ。
 殿中での抜刀は御法度、しかしこれ以前にも似たような事件は起こっており、首謀者も切腹はしていないようで、何故浅野だけが即日切腹されられたのか。
 ここにも当時の定に疑問だらけ、それは兎も角、忠臣蔵では赤穂浪士が主君の仇討SANY1303.JPGちを遂げることが出来たが、何故襲撃が成功したのかも疑問でもある。
 当時は夜半ろとうを組むこと事態不可能、夜間は大勢で武器を持って歩くことすら難しい情勢であったので、ここら当たりも何故吉良邸まで見つからなかったのか。
 浪人が武装して夜半団体で行動すれば、検問に引っ掛かるはず、まして武装集団であり、取締りがあっても不思議ではないのだが、如何して網の目を潜る事が出来たのか。
 そして吉良邸へ討ち入りした時にも、当然物音もして近隣に聴こえるはず、ましてや討ち入った人数が大勢、騒ぎが大きくて近隣から番所に通報が行くはず。
 しかも明け方まで死闘が繰り返されており、長時間の騒ぎが番所や奉行所に伝えられなかったとは不思議なことであり、ここら当たりも疑問の事件。
 赤穂浪士は吉良を討ち取り、主君の菩提寺泉岳寺までろとうを組んで行動、この間も何の取締りもないまま、泉岳寺に到着、全く不思議だらけの事件であった。

posted by kodokei at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記