2020年02月17日

時計製造列伝

    時計製造を目指す

SANY8481.JPG 明治維新後、日本は大きく変わり近代化の一途を辿るが、その陰には様々なドラマがあり、それらは歴史の闇にと消え去っていった。
 特に幕末から明治に入り、和時計から西洋時計へと市場が動く事により、滅び去るものと、新たに新興するものとがぶつかり合い、ここにドラマが生まれる。
 明治初期の時計製造に関しては2つの発展方法があり、それらの中心にはかってこの地域を支配していた津田助左衛門門下の人々が大いに関わって来る。
 尾張藩の禄から離れた彼らはその生きるすべを西洋時計に求め、西洋時計製造に関わって行く事に、それが名古屋地域の時計産業発展の礎となる。
 津田家に居た杉浦藤七、後藤万蔵、彼らはその後西洋時計製造に大きな働きをして行く、杉浦藤七は直接西洋時計に参画はせず、時計製造のサポート役を果たす。
 杉浦藤七は津田家を辞し自ら時計商として店を持つ、一方後藤万蔵も東京の京屋の援助を受け名古屋市内玉屋町に時計商として独立する。

 東京でも同じ様に、和時計に携わって来た者達、大野徳三郎、水野伊和造が時計商をおこし、成功したことに刺激を受けて名古屋での西洋時計に参画であった。SANY8489.JPG
 日本の時計産業は和時計を生産していた者達と、明治以後に力をつけた資本家の時計産業への参画が合間っての複合での成果である。
 明治新政府が文明開化の名のもとに、近代産業育成の急務の中、先進技術の導入により日本を近代国家へと築く1つの政策でもあった。
 そんな状況下、東京、名古屋と西洋時計製造に江戸時代より受け継がれてきた技術と職人、それが西洋時計の製造と言う産業を興す原動力ともなった。

 一方でお抱え時計師は姿を消し、新勢力の西洋時計製造者、時代の流れがハッキリと分かる構図となり、明治の夜明けとも言われる近代産業の出発であった。
 後藤万蔵は名古屋の時計商として成功しただけではなく、明治30年に同時に西洋時計を製造し始める、「岐阜時計」、「高岡時計」の仕掛け人でもあり、高岡銅器の扱い、同じ商いの関係で、彼の援助より岐阜時計、高岡時計は名古屋よりの部品供給や技術の指導に力を注ぎ、2つの時計製造会社を設立させた陰の仕掛け人でもある。
 自身は時計製造をすることなく、時計商や商社的な商いに徹して、幅広く商品を扱い名古屋市玉屋町で大棚としての地位を確立、写真は明治当時の名古屋市内にあった後藤万蔵の店舗と時計台、名古屋の繁華街にひときは目を引く時計商として後藤万蔵は成功したのだ。
 
posted by kodokei at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記