2020年10月23日

明治の時計塔4

   文明開化の象徴
SANY9415.JPG
 文明開化のシンボルとして時計が海外から輸入され、新しい日本のシンボル的存在となったのは当然の事、新政府が後押しをしたからだった。
 明治新政府は近代化を推し進めるに当たり、新しいものを日本に持ち込み、シンボルとしての役割を持たせようと、幾つかの西洋機械を持ち込む。
 その1つに時計も担い手として活躍する事に、先ずアメリカから大量に西洋時計を輸入、国の施設に配布して時計を広める事になる。
 郵便局や交番、役所といった施設に時計を設置、近代化の一環として時計の設置に力を入れ、数多くの西洋時計を買い込んだのである。
 勿論民間でもその動きは早く、商店や裕福な家などがこぞって時計を買い込み、自家用として時計を設置、時間を刻むことにしたものだ。
 この時計、建物にも設置されるが、これは時計塔としての役目、この時代西洋の建築物が盛に建設され、その中でも時計を設置した建物も続々と造られた。
 1番多く造られたのはやはり国の施設、特に学校等の教育場所に時計塔が設置されたようで、西洋建築と相まって時計塔ブームを引き起こすことに。

 これを機会に全国でも時計塔の設置が流SANY5397.JPG行し、時計商の建物にも盛に取り付けられ、時計の販売所の目印となったことは確か、時計屋の宣伝にも大いに貢献した。
 そなん時計塔、東京の新名所として錦絵にも描かれるようになり、東京の土産物として盛に売られていたようで、その中には時計塔が描かれたものも多い。
 今回の時計塔もまた、その先端を切った建物のひとつとして、錦絵に描かれているもの、新政府が建設して近代化を推し進めるための学校。
 現在の霞ヶ関三丁目に建設された工部大学の建物、明治6年に建設され、各技術者養成のための学校であり、赤レンガ造りの左右対称の建物。
 文明開化の象徴らしい建物で、その建物の中央部に大きな時計塔が設置され、如何にも近代化を推し進める大学の建物らしいものだ。
 明治7年この建物を3代広重が錦絵に描いており、建物もさることながら、東京の新名所として明るい構図を撮り、如何にも文明開化の象徴として描いている。
 明治7年の錦絵であり、早い時期に描かれた時計塔の1つとして現在残っているもの、明治の人が西洋時計に憧れていたことを伺わせる資料でもある。


posted by kodokei at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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