2017年01月09日

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   記録のはざま

 

 DSCN1983.JPG古時計を研究していると色々な事実に出くわす事が多く、その時の驚きと共に新鮮さを感じてならない。
 今までにも多くその様な事実に出くわし、その都度感激した事を覚えているが、その一つが中條勇次郎に関する事項。
 愛知県史作成時に林市兵衛の申告書、もちろん愛知県史の中の時計史についての記述、林市兵衛は中條勇次郎より先に西洋時計を完成させたとしているが。
 色々な文献を見ている内に面白い事が発見され、林市兵衛の申告書が、その事実と違っている事も立証できたのだ。
 林市兵衛は自分が西洋時計の元祖であると申告、苦心惨憺して結果量産出来うる時計を完成させたとしている。
 これは中條勇次郎よりも先に自分が西洋時計を造り出したと主張しているのだが、その根拠として記述される日付を見ると面白い事が分かった。DSCN1987.JPG
 林市兵衛は二代目中條勇次郎より申告された書類の記述で示されている日付よりも、常に先に自分の方が西洋時計を早く完成させたとしている事。
 例えば中條勇次郎が明治15年に西洋時計を造る事を始めたとしているのに対して、林市兵衛は明治14年に始めたとしている。
 また時計完成させたのは中條勇次郎は明治18年としているが、林はそれ前に完成させたとしている事。
 その他、細かい点においても、常に中條勇次郎が申告した期日よりも先に記述されている点、そして完成後の事についても述べられている。
 つまり中條勇次郎が製作した時計は未完成のものであり、時盛舎を設立してから製造を開始したが中條勇次郎の完成させた時計は不完全で調子が悪かったと。
 その為に自分が苦心してそれを改造した完成させたと言うのだが、当時は中條勇次郎も時盛舎に居て、                  えんかくし.jpg
共に時計製造に携わっていたが2年で退職している。
 林市兵衛と経営方針が合わず、また製造に関しての摩擦が大きくなり岡崎に帰り時計商を再開、新たな時計製造に取り組み明治32年に亡くなる。
 一方林市兵衛は着実に時計製造が軌道に乗り、時盛舎から林時計製造会社にと発展を遂げ、県議会議員となる。
 その後に愛知県史がつくられるが、林市兵衛は県議会議員の立場を利用して自分の記述通りに県史に記載したのだ。
 後に水谷駒次郎は、当時の状況を振り返り中條勇次郎の業績が打ち消されたと言っているが、世間では全てが林市兵衛の業績となっている。
 現在でも林市兵衛の記録を優先して伝えているが、史実は違っており、私も文献でその事を伝えたが、学者の一部はこの事を認めて林市兵衛の記述を削除している。
 しかし、現実はまだまだ改善されていなくて、中條勇次郎の業績は林時計の林市兵衛であると思っている人が多い。SANY8540.JPG
 最近ある学芸員が林市兵衛について書いた記事にも、全く以前の林市兵衛の記述通りに書いていたが、自分で研究せずに簡単な文献を参考にして記事を書くと、この様な間違いをする。
 少なくとも学芸員ならば、もっと細かな資料を参考にしなくては良い記事は書けないと思うが、そして事実を把握したのちに記述すべきであると思う、新たな文献があるのだから。
 簡単に手元の文献だけを見て書くから、訳の分からない文章となっており、学芸員の恥をさらしているようである。
 愛知県史にも記載されている時計史を、もっと深く研究して欲しいものだと思っており、愛知の時計史を深く掘り起こして欲しいものだ。

posted by kodokei at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 古時計奮闘記
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