2017年05月12日

いがいにも

      古着商から転職している


SANY0205.JPG 江戸から明治に入り、新しい時代となり産業もまた新たな分野が生まれて来、其の中に西洋時計の製造を志すものが出てくる。
 明治初期に時計産業に参入している出資者の中は、江戸時代に家業として、古着屋を営んでいた者も多くいる。
 今と違い江戸時代には一般庶民は新品の着物など買えず、もっぱら古着が当たり前、着物と言ったら古着、それが当たり前であった。

 その為に古着屋は市中に多く存在しており、庶民の強い味方でもあったようで、買い求めるのは何時も古着と決まっていたようだ。
 古着屋は当時は商店としても一般的な商売、何処の町にも存在し、結構繁盛していたと言う、今の感覚とは少し違うものだと思う。
 そんな中、古着屋で大儲けをした商人も多いと聞く、やはり今の時点で考える古着屋とは少し違っているようだ。SANY1660.JPG

 代表的なのは林時計製造所の林市兵衛であり、名古屋市内で古着屋を営んでいたが、西洋時計の流入に刺激され時計販売を志す、当時数多くの古着屋が店を出していたが、競争相手が多く経営は芳しくなかったようである。
 そんな中、林市兵衛は西洋時計の売れ行きに注目、古着屋を続けていては将来は見込みないと悟り、新たな経営に乗り出す。

 一方、精工舎の創始者服部金太郎の父、服部喜三郎もまた名古屋に於いて古着屋を営んでいたが、やはり経営は思わしくなく、江戸に出て再び古着商、「尾張屋」を開業する。
 服部金太郎も又、家業が芳しくないのに気付き、亀田時計店に丁稚奉公に出、その後西洋時計製造を志
すのであり、両者供家業の古着商に見切りをつけるのも、期せずして同じであった。
 当時の古着商は一般庶民を対象としており、現代みたいに新品の着物を買えSANY1178.JPGる様な生活状態ではなく、庶民は古着を買うのが当たり前の時代であった。

 その為、古着商は今の我々との感覚違い、市中には多くの古着商が立ち並び、古着に対する見方が当違っていたし、それが普通でもあった。
 古着商で財を成した人物も又多くおり、林市兵衛も其の1人、彼らが志したのは、文明開化の申し子、西洋時計を自ら製造し、其れを販売する事を目指していた。

 従来の家業に見切りをつけ、異業種の西洋時計製造販売と云う新分野に、自分の将来の夢を託し、其れを勝ち取るため転業していったことは、彼らの先見性の高さの証明でもあった。
 そして彼らは苦難の末、西洋時計の製造販売に成功し、古着商から脱却して、新産業の頂点に立ったのである。
 歴史と言うものは実に奇妙であり、事実は小説よりも希なりの言葉の如く、真実もまた奇である。


 
posted by kodokei at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 古時計裏話
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