2019年06月02日

信長死す

    本能寺の変

SANY9611.JPG 戦国の世、尾張の地にて生を受けし風雲児織田信長、日本の歴史上最も鮮烈なイメージを、人々に植えつけた人物、其の人となりは様々に評価されている。
 ある人は、「人間味の無い奇人である」とか、ある人は「天才的策略者」だとか、ある人は「殺人鬼」だとか、様々な呼び方をされているのも信長らしい表現である。
 しかし、実際の人物像は正に闇の中、歴史の事実のみが其の姿を浮き彫りとしているが、彼自身戦国の世に、尾張の小国の家に生まれ、侵略されるのは風前の灯とも云われて育ち、奇行に走ったようだ。
 しかし、本当に其れが奇行であったのか、それとも信長自信の演出でもあったのか、其れも又闇の中で今知る人は居ろうはずも無いのである。
 信長の鮮烈なイメージの1つに、あの桶狭間の戦いがあるが、歴史学者が色々な説を唱えて、信長の行動を研究をしているが、現地桶狭間に立つと、学者さんの言うことが信じられない事もある。

 信長の奇襲攻撃により、今SANY9614.JPG川義元は桶狭間の露と消えたが、これも信長の用意周到な作戦計画であったのではないのかと、思われてならない。
 万に一つの勝ち目もないと、戦前から言われ、家臣達も討ち死に覚悟での戦いであったとされているが、戦国の世戦いは死を意味しており、常に隣り合わせていたから、彼らはさほど動揺はしていなかったと思う。
 それを上手く状況判断の末、戦の作戦を練っていた信長であり、偶然に勝利したものでなく、戦略家らしい信長の技量で、運が良かったとは言い切れない。
 その後の信長の戦いを見ても分かるように、偶然で戦に勝利したのではなく、用意周到準備された作戦にもとずいた勝利、長篠の戦ほど信長の真髄を見せ付けられたもので、当時の世界で3000丁の鉄砲を戦に使用したのは、世界で信長が始めてである。
 そんな天才的戦略家の信長が何故、無防備で本能寺に入ったかは不思議でならないが、それも歴史の謎であるのか、今日戦国の勇織田信長が49才の幕を閉じた日である。











posted by kodokei at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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