2016年12月29日

堀部時計

      現存数が少ない



 SANY3184.JPG明治期、名古屋地域では時計製造会社が乱立、他の地域とは違い時計製造が容易に出来た事もあり、数多くの時計製造会社が設立された。
 全国的に見ても名古屋地域の時計製造会社は特殊な状態、この地域では時計産業に携わる人口が非常に多く、事実時計産業に参画もしやすかった。
 名古屋地域の多くの時計製造会社は自社で全ての部品を製造した訳でなく、必要に応じて部品を他社から仕入れ、自社では主要部品だけ製造したのだ。
 大手の時計製造会社と違い、後発で中小の時計製造会社は自社で全てを製造していたのでは価格的に大手と戦い出来ず、コスト削減の意味も含めて、部品購入を行っていた。
 このような特殊な形態が出来たのも、名古屋地域の時計産業は分業化が進んでいた事、結果数多くの時計製造会社が出来た要因の1つでもある。
 例えば機械は別、箱は別、振り子は別、ガラス枠は別、渦まき鈴は別と、独立し販売をしていた名古屋地域の時計産業、組み立て時計を製造するのにはもってこいの環境でもあった。
 そんな状況下、名古屋の時計製造会社は独自の時計を製造出来たので、数多くの組み立て会社が出現、百軒時計とも言われる位に時計を製造する処が多く存在した。SANY3181.JPG
 今回の堀部時計も又そんな環境下、外部から部品を調達して時計を製造した会社、記録によると、資本金不明、従業員数23名、月産製造数5、600台、当時は中小の時計製造会社であった。
 明治36年、37年の製造数、年間8000台の時計を製造、勧業年報に、その記録が残っているが、その殆どが海外輸出されたようで、東南アジアに向けて輸出されたと言う。
 其の為に製造数は多くあるものの、国内の現存数は極めて少なく、今では幻の時計として扱いを受けていたもの、記録には出ているものの、現存している時計が発見されていなかったからだ。
 偶然にも私の手元にやって来たこの時計、発見時は半信半疑であったが、持ち帰って調べた結果、間違いなく堀部時計である事が確認できた。
 一見時計の形状から、大正から昭和にかけて製造されDSCN1979.JPGた時計と間違われる様な形態、ラベルが無ければ昭和に製造された時計と言われてしまう。
 まだ市場に残っていると思うが、是非ともこのラベルの物を探して欲しいものだ、そして極めて貴重な明治期の時計であり、名古屋地域にとって資料価値の高い時計であるから。
 振り子室のラベルは白い紙で印刷されたもの、中央にはライオンのトレードマークが付いているから、これが目印。
 勿論、ローマ字で堀部時計製造と書き込まれているから、ラベルさえ残っていれば発見しやすいが、ラベルがないと難しくなる。
 特徴のないごく普通の八角尾長の時計であるから、見た目には何処にでもある単なる時計であり、史料価値の高いものとは気が付かないと思う。

 
 
posted by kodokei at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 古時計よもやま話
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