2020年03月11日

大阪と京都

    近隣の戦い
SANY7141.JPG
 再び取り上げた大阪と京都、古来より比較されてきた地域、明治期の近代化にもその特徴が現れており、大阪と京都其々に違った考え方で相違。
 明治期に入り、千年の都を東京に移され、京都は間が抜けたような雰囲気に、片方大阪は相変わらず台所としての地位を保ち続ける。
 その気持の差が近代化にも大きく表に出る事に、逸早く文明開化の申し子、西洋時計製造に着手した大阪、一方の京都はこれに出遅れる事に。
 都が移ってしまった事に落胆を隠せない京都は、近代化の並に遅れてしまい、大阪に先を越され、追いつくのに必死となるが既にその差は大きくなっていた。
 何事にも先んじて来た京都、文化の発信地であった京都、それが都が移った打撃は大きくのしかかり、精神的な没落の兆し。
 例えば近代産業の時計製造、大阪は東京、名古屋に追いつくために逸早く時計産業に参入、6社が凌ぎを削っていた時、その時京都はやっと一社が産声をあげる。
 この近代化の遅れは京都にとっては致命的な事、その為に危機快晴の一発を勧業博覧会に求め、明治28年京都岡崎の会場に第四回内国勧業博覧会を開催する。
 この勧業博覧会に数多くの西洋時計を京都から出品、有効2等賞を受賞、西洋時計製造に弾みをつけると共に、京都の時計製造技術を世間に示す。

 この様に大阪に先駆けて勧業博覧会を開催し、時計製造をアピSANY7138.JPGールしたが、大阪の生産数を抜くことはなく、まして名古屋地域の時計との価格競争に曝される。
 その上に大阪の時計製造会社からの攻撃も受け、結果は大阪に追いつくどころか、存続の危機に陥ってしまうことになるが、一時経営を持ち直すも後が続かなかった。
 名古屋からの資本を導入し、尚且つ時計職人も多く名古屋から雇い入れる事に、それにひきかえ大阪の時計製造会社は地元重視の経営を行う。
 この時、大阪の時計製造会社は大阪時計、渋谷時計、松下時計、北出時計、日本時計など、京都は大手京都時計だけ、後は組み立て会社のみと会社は少ない。
 ここにもヤハリ後発と言うハンディーを背負っての時計製造を強いられ、コスト面と価格競争の両面より、大阪の時計製造会社との製造競争は激化、それに加えて名古屋の時計とも競争しなくてはならなかった現実。
 大都市圏の2つの地域、消費人口も多く存在し、時計産業もやり易かったはずなのに、製造会社は長続きせず、両地域の時計製造会社は多く存続しなかった。写真は上から大阪時計、京都大沢時計。
posted by kodokei at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 古時計裏話
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