2018年04月12日

これは何だ

      鉄の塊

SANY8073.JPG
 またまた友人が分けの分から無いものを持ち込んで来たので、その論議に喧々諤々、またしても論争が激化する嵌めになったしまった。
 たまたま知り合いと酒を呑んでいた時に友人が現れ、何やら重そうな物を持って入ってきたが、何か怪しい雰囲気の物だと感じた。
 一緒に居た知り合いも友人とは顔馴染み、その場に入り込んだ友人、先ずは自分の好きなビールを一気に飲み干し、新聞紙の包みを開けだした。
 現れたものは埃まみれの汚らしい物体、「食べ物の席に汚らしいものを持ち込むな」と私が諌めると、そんな事よりこれは何だと汚らしいものを出した。
 知り合いも「汚いものだなぁ〜」と呑んでいたグラスを避け、その物体を迷惑そうに眺め、やっぱり汚らしいものだと、確かに汚いものだ。
 友人、「これは何だ」と鉄の塊を指差し、貰ってきたが何だSANY8077.JPGか分からないものだ、だけど面白いと思って持って来たのだが、やっぱり汚いなぁ〜と言う。
 酒を呑んでいる席に持って来るものではないだろうと思いつつ、その物体を良く見ると灰皿ではないのかと思うが、それにしても重いものだ。
 仮に灰皿でも何でこんなに重いものを造ったのか疑問、しかし良く見ると自動車の姿をしているように、すると知人が「これ自動車だ」と言い出した。

 私も気付いたのだが古い自動車の形をしている物、灰皿らしきものである事には違いないのだが、時代が相当に古いものだと思う。
 自動車の形から昭和のものには違いないとの認識で一致、しSANY8083.JPGかし戦前にこんなものを造るのかとの疑問も湧いて、モット古いのではと知人が言い出した。
 戦前、つまり昭和のはじめ頃であれば、「金属でこんなもの造るのか、金属不足の中」と友人が、確かに言われれば金属不足のおり、灰皿などに金属を使用するのかとの疑問だ。
 「では戦後の鋳造であるのか」と知人が言うが、戦後の代物でもなさそうな雰囲気、兎に角分けの変わらないものには違いなく、それを肴に3人して酒を呑む。
 自動車の形からはやっぱり大正から昭和初期の自動車、それにしては鋳造方がお粗末で、しっかりとした製造で造られた物ではないと思う。
 そんな事で何だ、かんだと論議をするうちに、酒が回りだしてきて、そんな論議もそっちのけ、酒が旨いと言いつつボトルが空になったしまった。
 写真の鋳物、形もボケたような姿の灰皿、テイブルの上にこんなボケた自動車を置いては恥、だけど何だか捨てがたい雰囲気の代物でもある。

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2018年04月02日

千利休

      志野の焼き物

SANY6326.JPG 私が小さい頃から、我が家の床の間に鎮座していた焼き物、何でこんな床の間に古臭い焼き物が置いてあるのか不思議で、よく見たものだが誰であるか全く知らなかった。
 その後、何処に消えたのか分からなかったが、お袋が引っ越す時に何処ともなく現れ、チャッカリと荷物になって引越しのトラックに、引越し先で又も何処かに消えうせた。
 それから、この焼き物の事等スッカリ忘れてしまったが、私が新築をした家に移るさい、又もどこからともなく表れて私の家に、何だか知らないがどうして着いて来るのか不思議であった。
 我が家に引っ越してきたからはダンボウルの中でひっそりと姿を隠していたが、子供が結婚する事になり、再び荷物を整理していたら、マタマタ現れた。

 そんな因縁でこの焼き物は我が家の床の間に鎮座する事に、現在では時ある毎に出しているが、不SANY6330.JPG思議でならないのは引っ越すたびに現れてくるからである。
 余程我が家に来たくて着いて来たかのようで、其れ以来我が家の一員となり、床の間に居ついてしまったようであるが、この人物誰だか分からなかった。
 てっきり松尾芭蕉とばかり思ったいたら、友人が「何で利休が此処に居るのか」と云われ、初めて利休と分かり常時出しておく事には抵抗があり、かたずけたのである。
 この焼き物、尾張瀬戸で幕末頃に作られたもの、志野焼きで出来の良い作品、てびねりで上手く雰囲気を出している傑作、作者名は無いが素晴らしい焼き物である。
 父親が大事にしていた事が、今になってやっと分かったような気がしてきたが、何処がどうだと言うことは無く、焼き物に対する感覚が少し分かって来たのかも知れない。








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2018年03月14日

改暦辨

      この時から始まる

 SANY0367.JPG日本が西洋と肩を並べだした明治初期、今までの暦から新しい暦に切り替わる時、即ち太陰暦から太陽暦に切り替わる事により、世の中大騒ぎ。
 明治5年12月3日を明治6年1月1日とするお触れが突如として市中に出、庶民はてんてこ舞いをすることになり、その動揺は計り知れないものがあったようだ。
 今までの暦が使えなくなり、時間の観念が根底から変わると言う、大きな出来事であり、長年培って来た生活習慣まで変えざるを得ない事になってしまうから。
 やはり当時の人は戸惑いを隠せなかったと思われ、その名残が現在もまだ引き継いでいる事もあり、新暦と旧暦との呼び方がそれで、未だに旧暦で行う行事もある。
 140年も経っているのに、未だにその当時の事が尾を引いているとは、如何に長きに渡って日本の暦が続けられてきたか、改めて当時の人々の戸惑いが分かる気がする。SANY0373.JPG

 そんな世相を反映して慶応義塾の創始者福沢諭吉、この改暦を庶民に分かりやすく解説した本が改暦辨と呼ばれる書物、今で言うマニアル本である。
 改暦辨には、今までの日本の暦が西洋時間になった場合の事が、比較して分かりやすく説明されているが、当時の人は自分の生活が支障をきたすと戸惑ったようだ。
 本の中でも、一日の時間を24時間となり、今までの一時(いっとき)が西洋時間ではどうなるかとか、秋分の日や春分の日が変わること、月の日にちが替わることなど。
 こと細かく説明されているが、果たして当時の人々がどれだけ理解していたかは疑問、長い間に染み付いた習慣はそんな制度で簡単に変えられることも無かったようである。
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2018年03月02日

電笠

      上向きか下向きか

SANY5941.JPG ランプシェード(電笠)、ランプシェードとはランプの覆い、昔はランプの火が風で消えないように覆いを被せて、風対策をしていたもので、風除けであった。
 強い風から炎を守る為に作られた覆いであるが、単に覆いだけではアッケない、其処でガラスのほやで風から守る事を考案、次第に装飾性を施して行った様だ。
 時代が経つにつれ段々と豪華になり、単に風除けとは云えない代物に変化して行き、当時貴重であったガラスを用いて覆いを作るようになり、次第に派手になった行く。
 何時の時代でも権力者は最高の物を求め、宮殿のランプを鮮やかな物で飾りより豪華さを競った為、ランプシェードは急速に発達する事となる。

 それでも一般庶民はまだまだ直ぐに手が足せる物ではなく、時代が下がらないと普及しなかったが、それでも単なる透明のガラスであり、
装飾性の優れたものは高価で手が出せなかったようだ。SANY5946.JPG
 時代が進み電機の発明と共にランプシェードもその用途が風から炎を守るのではなく、光を集中して下に向けるための用途に変わって行き、形や色彩もより鮮やかな豪華な物が出来上がり、一世を風靡する。
 形式もランプでは無かった形、つまりランプの光は上向きであった為その様な形に作られていたが、電気は下向きでも使用可能であり、新たな形が生まれる事になる。
 西洋では「ランプシェード」と呼び、日本では「電笠」と言う、日本の人は電気の笠なのに何で「ランプシェード」と呼ぶのか不思議であると思う人が多いと思う。
 それはランプから発展していった過程での呼び名であり、ランプシェードと今でも呼ばれ、ランプの笠ではないが日本の人は海外で電気の笠ではないと思ってしまうらしい。
 写真はイギリス製のランプシェード、形はランプのほやそのもの、これは一目見てランプのカバーで電笠ではないと思える位、上向きのランプ用であり、高級なオパールセント、薄くラメ状になっていることが確認できる。
 古い時代のランプシェード、壁掛けタイプのおとなしい形、日本の家屋にもピッタシ合う、シンプルで日本人好みの物、中々日本の家屋にあうランプを探すのも一苦労だ。
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2018年02月25日

福助2

      登  録  商  標

SANY1667.JPG 本来、福助の置物と福助足袋のマークは同じ物ではないが、福助足袋のマークが有名になってしまった結果、現在の若い人は福助は福助足袋のものと思っている。
 この福助は、福助足袋の歴史よりもずっと古く江戸時代からある置物、其の置物をモデルとして福助足袋がトレードマークとした結果、有名になった物。
 福助足袋は、明治25年に辻本福松が、大阪堺に於いて「丸福」と言う屋号で足袋を販売する店として創立、商売が順調に進み店が繁盛するようになったが、屋号の「丸福」が同じであると訴えられ、裁判において敗訴して屋号を変更。

 福松の息子辻本豊三郎がお伊勢参りの途中、福助の置物を見て、この福助を商標することを思い立つ、親子協議の結果福助足袋と命名し、福助をトレードマSANY1577.JPGークとした。
 明治33年(1882年)、辻本豊三郎は福助マークを登録商標として登録、その後社名も福助足袋株式会社と改名、派手な看板や宣伝を行い、足袋業界においてトップクラスの会社となる。
 福助をトレードマークに採用した効果は絶大で、全国的に福助足袋の名は知れ渡り、足袋と言えば福助マークの付いたものが1番と言われるようになった。

 写真の看板が、遠くからでも一目で福助足袋と分かる看板ができあがり、之が全国に広がり親しみやすさと、派手な赤色で福助足袋を印象ずける事に成功したものである。
 福助足袋の宣伝物は、兎に角目に付く物を利用しており、赤色が印象深くて、大人から子供まで、福助を見れば足袋の会社だと思ってしまうほど覚えられた。
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2018年02月24日

瀬戸の磁器雛3

      呼び名が変わった
SANY1432.JPG
 雛人形の呼び名が変わった物が2つあり、1つは「右大臣、左大臣」ともう1つが「衛士」の2つ、この2つが呼び名が変わったもので、今では随身と呼ばれる(右大臣、左大臣)。
 その昔から右大臣、左大臣と呼ばれていたわけではなく、一説には東京の某人形店が自分のところの雛人形にパンフレットの形で人形の飾り方を印刷、其のマニアルを付けて人形を販売した。
 其処には右大臣、左大臣と記載されており、これが全国の人形店に広がり呼び名の元となったようだが、事実はどうであったか不明な点が多い。
 只、全国的に広まったのはマニアル化された印刷物であった事は確かなようで、それ以後急速に全国に広まったことは確、この右大臣、左大臣と呼ばれた人形、弓矢を持っている。

 大臣が弓矢を持っている事は無く、正式には近衛兵の中将か少将と云われ、天皇の警備に付いた武官であり、人形店の勝手な判断が誤解を生んだもの。
 SANY1433.JPGSANY1434.JPGそしてもう1つは衛士、従者の事をよび雨傘や日傘を持っている人形、現在は仕丁と呼ばれているが人形店によっては従者となっていることもある。
 写真の随身、大正期に瀬戸で焼かれた磁器雛、可愛らしい人形で座っているが、格好が少し普通の随身と違って寛いだ雰囲気、片足を挙げてリラックスしている珍しい物。
 本来は立って警備している姿をしているのが当たり前の姿、この様にリラックスしている物は極めて珍しく、磁器雛の製作者が遊び心を持った人物であったようだ。
 そしてもう1つが、背中に背負っている矢、本来は右肩から出ているのが当たり前であるが、左の肩から出している随身もあり、左右両方から出しているのも珍しい。
 弓矢は右利きである武士は、当然のこと右肩の後ろに矢が無ければ弓に装置する際、左肩に有る事事態ありえない話だが、現在製造されている雛人形を見るに、左肩に背負っている物が多いのは何故であろう。







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2018年02月22日

照明

      改めて見直して

 SANY5721.JPG今まで全く気付く事のなかった蛍光灯、自然に其処にあり明るくて電気代が安い、そんな蛍光灯を無機質な明かりとは思ってもいなかったが、イギリスの友人に言われた言葉が、やけに気になり出した。
 「日本人は、何故無機質な蛍光灯を家庭の中まで持ち込むのか」と、そして「工場で使用しているものを何故家庭で使うのか」と、指摘された事。
 思いもよらない言葉、蚤の市でアンティクランプを探し求め、気に入った物を買い込んだときに、「このランプ何処で使うのか」と、この言葉もやけに気になった。
 云われて見れば、日本の家庭で蛍光灯が使われだしたのは、昭和30年代後半の事、そのときは工場で使っているものと同じ真っ直ぐな蛍光灯、彼らの言う工場で使われているのと同じ物であった。

 工場は当然作業をしなくては成らず、手元が暗くては仕事にならないので、当然明るい事を求められ、部屋全体を照らすように設計されている。
 それをなぜ日本は家庭に持ち込むのかとの疑問、家庭の中まで直接照明をする必要が有るのかと、彼等は間接照明こそが温かみのある照明ではないのかと言うのだ。SANY5728.JPG
 素朴な質問でもあるが、耳の痛い話でもあり、考えざるを得ない様になったが、それ以来自分の家の照明が気になり出し、必要以上に明るくないランプに切り替えだした。

 壁にランプを取り付けて、中央のランプの明るさを、今までよりも小さな物にし、間接照明を取り入れて、部分的に切り替えられるように改造したのである。
 以前の照明と比べれば部屋全体は明るくはないが、決して暗くもないのだ。
 人間の慣れとは恐ろしいもので、明るすぎに気が付かなく、それが当たり前のように思っていた生活、少しは暗いかも知れないが。
 もう1つは、LEDの白色の光を発する電球をやめ、温かみのある黄色のLEDに取り替え、今までより明るくないが暖かさのある光になって、昔のような雰囲気になったの良いと思う。
 省エネの現代、必要以上に余りにも明るいものは避けて、しかも実用的な照明に替える事が進んでいる事は喜ばしてのではないか。


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2018年02月20日

葉煙草

      昔は民間で

SANY5704.JPG 煙草、昔から人々に吸われていたもので、古くは紀元前から喫煙の記録はあり、色々な形で吸われていたと思われ、現在のような紙タバコに成るのは近代になってからである。
 そもそも煙草は、ニコチンのかたまりみたいなものであり、中毒症状を起こす刺激な存在、多くの人々に吸われていたが、もう1つは宗教的な儀式にも使われていた。
 神に伝える神聖なものとして煙草は吸われていた時もあり、現在のような嗜好的なものではなく、神聖な儀式用で使われた時代は、一般人は吸うことを禁じられていた時もあった。
 日本では古代には既に吸われていたらしく、これも儀式用であったと言われているが、どう言う形式で行われていたのか不明、庶民に盛に吸われるようになるのは、江戸時代に入ってからの様、それは葉巻たばこではなく、刻み煙草であった。

 芝居等で長い大きなキセルと言われる道具で、刻み煙草を丸めキセルの先にある受け口に入れ、口元から吸う仕組みに成っていた物、現在のパイプに近いものである。
 この煙草、明治に入ったからも盛に吸われていたが、明治9年1月(18SANY5709.JPG77年)に時の政府は葉煙草に税金をかせる法律を執行、この時から庶民は国に税金を払って煙草を吸わなければ成らなくなる。
 しかし、当時はまだ専売制ではなく、民間の企業が葉煙草の販売を盛んに行っており、色々な所からは煙草が市場に販売されていたし、海外にも盛に輸出されていたのである。
 そのあと日清戦争後、国は葉煙草の販売が盛んなのに目を付け、明治31年には専売制度が作られて、民間は自由に煙草の販売が出来なくなり、そして明治37年には専売局が発足する。
 写真のラベルは、明治初期まだ民間が葉煙草を販売していた当時のラベル、鮮やかなデザインと各社独自の製法で、葉煙草の販売をしていた当時の物である。
 明治の赤と言われる彩色を施されたデザイン、今見ても非常にインパクトのあるデザイン、この様な鮮やかなものが盛に海外に輸出されていたようである。
 縦23センチ、横17センチの大きなラベル、葉煙草の包装紙の上に張られていたラベルで、各社其々の趣向を凝らしていた。
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2018年02月18日

これは何なのか

      何の部品なのか

SANY9444.JPG
 私の古い友人が実家の蔵にあった物だと言って小さな箱を差し出し、「これは何の部品なのか」と、仕方なく小さな箱を開けると紙に包まれたものが中に入っていた。
 彼の実家は甲府の古い民家、私も何度か訪ねたことがあるが、築200年以上は経っているもの、蔵も2つあり、その中の1つに時計があったので貰い受けた。
 この家、地元でも評判の名士、彼の親父は議員さんであったらしく、地元で有名人だそうたが、彼は一番下の末っ子、私とうまが合い、若い時から悪友達。
 昔は地元の大庄屋を勤めた家柄らしいが、そんな事はお構いなし、この男は悪がき、学生時代は遊びほうけて就職もしなくて自由業をやっていた男。

 その後、喫茶店を開き繁盛して、ソコソコの店となったが、そこで満足している男、そんな彼の店には私の時計を常時展示、店の宣伝に役立っている。
 彼が実家に帰ったとき蔵の中に置いてあった箱を見つけ、中を見たらこれが入っていたらしく、何の部品か分からないから見SANY9448.JPGて欲しいと持参した。
 箱を開けると紙に包まれた金属製のものがあり、触って直ぐに豆ランプの部品と分かり彼に伝えるが、まだピンとこない様子なので、私の家にある豆ランプを取り出す。
 そして彼が持って来たものを取り出して比べて見せ、同じものであることを確認させると、何でこんなに多くあったのか不思議だと言うのだ。

 確かに彼の言う通り、新品の金具が24個も入っているのだから、彼ならずとも不思議に思うのも無理はないが、逆に言えば彼の家は大きくて豆ランプも沢山あったのではないかと思う。
 普通の家では豆ランプは1つか2つくらいだと思うが、実際には風呂場とかトイレで使ったようで、常時置いてなくて移動して使った物だと言う。
 つまり大きなランプを持って歩くのは不便、持ち運びに便利な豆ランプが利用された、しかし一般家庭では多くの豆ランプはもてなかった。
 SANY9458.JPG多くのランプを持てた事は金持ちを意味していること、ましてや豆ランプを多く使用している事は金持ちの証し、彼の家は大金持ちであったのだ。
 本人はランプの生活等したこともないし、昔の話で知る由もないから、持って来た部品はランプのものだとも知らないのは当たり前のこと。

 豆ランプの部品は、この3本爪のものと2本爪のものとがあり、彼が持って来たものは未使用の3本爪の部品、何時壊れても良いようにストックしてあったものだと思う。
 このように大量の部品をストックできるとは、やっぱり金持ちの家であった事の証し、しかし彼はそれを知らないのだが、持っていたのも知らない。
 使った事の無いものは分からないし、ましてや古いものは分からないのが当然の事、それを知りたいと思うのはまだ良いが、捨ててしまう人も居るから残念なことだ。
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2018年02月14日

意外な図柄

    美人画の大家

 SANY3606.JPG伊東深水、日本画の大家、美人画を描かせたら右に出る者はないとまで言われた画家、特に和服姿の美人画は人気。
 戦後の日本画を代表する画家であり、昭和を彩った大家としても有名、しっとりとした美人を描いた。
 そんな深水が、堀田時計の依頼で版画を制作していて、その版画も古時計愛好家から絶大な支持を得ていることは事実。
 勿論古時計を題材に独特の美人を描いた作品、堀田版として愛好家に人気なものだが、数も多い。
 特に昭和30年代の堀田版ものは良い図柄の物があり、それを求めて古時計愛好家があちこちと探しているのだ。
 やっぱり和時計を題材とした美人画は特に人気で、市場に出れば引っ張りだこの争奪戦、値段も高くなってしまった。
 以前私もその和時計を題材とした堀田版ものを手に入れようと、探し回ったがそれでも高くて中々手が出せなかったものだ。

 この深水の堀田版は古時計愛好家なら一つや二つは持っていると思うが、中にはこのシリーズを全部集めている人も居る。
 熱狂的な深水ファン、本物の深水の絵は高くてとても手がSANY3537.JPG出せないが、この堀田版であれば手に入れられる。
 そんな堀田版の中でもなかなか手に入らないのが、フランス人形を描いたもの、深水がフランス人形を描くとは。
 日本美人が得意な深水、まさかフランス人形を描いているとは意外であったが見てみると、深水らしい描き方だと思う。
 確かにフランス人形に違いはないが、顔だちとか目に日本画の雰囲気が漂っているのだと思う。
 そして、もう一つが娘の朝丘雪路をモデルとしたと言われる現代的な美人、深水がこんな絵を描くのかと思う。
 確かに現代的な顔立ちと色使い、白と赤とのコントラス、確かに現代的であるが、ヤッパリ日本画の大家。
 現代的であっても、そこは日本画家であり、随所に日本画の色使いが出ているのだと思わざるを得ない作品。





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2018年01月28日

珍品陶製の梵鐘

      代用品の傑作
SANY1506.JPG
 愛知県瀬戸市と言えば千年の昔から陶器の生産地、日本六古窯の1つで、一番は古くから釉薬を掛けた陶器を製造していた土地、加藤藤四郎を陶祖として栄えてきた。
 瀬戸で作れない物は無いといわれた土地、昔から職人たちは陶器の製造には研究熱心で、色々な物に挑戦をしていることは、あちらこちらで発掘されたものから分かる。
 当時の職人魂を見る思い、発掘された物の中には現在何に使用したのか分からない物も多く、当時の職人が如何に色々な物に挑戦していた証である事が分かる。

 そんな瀬戸市内に、陶製の梵鐘があるが余り知られていないが、戦争の副産物として造らせたせいであろうか、世界広しと言えども陶製の梵鐘があるのは瀬戸しかSANY1507.JPG無い。
 この梵鐘、瀬戸市内中央部にある法雲寺、創建は明治と新しいお寺であり、其のお寺の境内に現在は鐘楼下に置いてあるが、見学は何時でも出来る。
 実際に見学すると大きな物で、鐘を吊り下げる金具の高さまで150センチ位の梵鐘、所々に欠けたところがあるから、之が銅製の金属で出来た物ではない事は、誰が見ても直ぐに察しはつく。

 しかし、この梵鐘を目の当りにすると迫力があり、こんな大きな物を陶器で製造しようとした、当時の職人たちの心の動きが分かる気がして、何だか胸が詰まる思い。
 戦争中に金属を供出され、お寺の梵鐘まで無くなって、檀家たちだけでなく人々は鐘楼から消えた梵鐘に思いを馳せ、陶器で製造することを思い立ったのであろう。
 梵鐘の無い鐘楼は魂が無いとSANY1509.JPG同じもの、其の魂を陶器で造りだろうとした当時の職人たちの心意気と、戦争に対する抵抗感が受け取れるような気がしてならない。
 こんな物まで造り出した瀬戸の職人たちの底力を見た思い、伝統に培われた技術はどんな時にも、其の力を発揮するものでもあると、改めて思いを新たにすることが出来た。
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2018年01月24日

幻のオリンピック

      照らす灯り

SANY5177.JPG 東京オリンピック、2020年に東京で開催されることが決定しているが、昭和のはじめアジアで最初のオリンピックが東京で開催されることが決定。
 1936年、IOCの総会で次回のオリンピックをアジア初の東京で開催する事が決定、しかしこの時日本は中国との戦争に突入する前夜でもあった。
 軍部の中国進出の働きが強くなり、支那事変へと発展してゆく事になり、戦争に突入してしまい、国際的にも孤立を高めて行くことと、結果はオリンピック辞退へとなる。
 アジアではじめてオリンピックを開催するという事に全力を傾けてきた日本IOCも、結局は軍部の力の前には、なすすべもなく打ち砕けてしまった。

 当時、国民の間にも初SANY8721.JPGめて日本で開催されるオリンピックを歓迎し、その機運も上々であった事は確か、巷ではオリンピックムードが盛り上がろうとしていた。
 それを先取りして、国内ではお祝いムードが持ち上がって来たとき、軍部による圧力が国民を押さえつける事に、オリンピックを開く予算があるのならば、戦時下戦争の軍需品に回すのが当たり前と圧力をかけたのだ。
 日本は昭和15年、紀元2600年祭を控えており、これをも擁す事が最大の課題、その一環として東京でオリンピックを開催する事、しかし戦況は着実に悪化していた。
SANY8733.JPG
 国際社会からも圧力が強くなり、軍部の責めつけも激しくなる事で、結局東京でのオリンピックは辞退せざろう得ない状況に陥る。

 しかし民間はオリンピック目当ての商材を数多く計画、オリンピック景気にあやかろうと、あれこれと商品開発を推し進めていた。
 今回紹介するランプもその1つ、オリンピック記念として売り出すために計画されたもので、聖火ランナーをモチィーフにした電気スタンドを製造する事になる。
 合金による鋳造だが、余り良い合金ではなく、物資が段々と厳しくなる予兆みたいな造り、全体に薄く仕上げられ、今一迫力に欠けるものである。
 やはり当時の世相をSANY8738.JPG現していることは間違いなく、オリンピックの記念商品として発売するつもりで製造しているが、日本のおかれている立場を表しているかのようだ。

 聖火ランナーの頭の上には日本の国旗とオリンピアの文字が見え、その下には1940年の年号が刻まれており、東京オリンピック記念だと分かるのだ。
 見た目には重量感がある様に思えるが、実際に手にとって持ち上げて見ると、その軽さに驚くのであり、戦時下であった事を改めて感じる。
 結果、この商品は販売されることはなく、お蔵入りとなったのであろうと思うが、どけだけ製造されたものなのか、そして損失は大きかったろうと想像が付く。
 幻のオリンピックとなった1940年(昭和15年)の東京大会、この外にも数々の商品が製造されたが、当時日の目を見ることはなく、今日その名残を伝える証しとして存在している。

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2018年01月13日

懐かしの玩具

    幾つになっても

SANY1073.JPG
 幾つになっても昔遊んだ玩具は忘れがたいもの、そんな玩具を手に取ると、すぐに昔のあの時に帰る。
 誰しもそんな思い出の玩具があると思うが、それが何であれ楽しいもの、歳取るごとに懐かしく思う。
 私はソフトビニールの玩具には拘りがないが、見る事は好きであり、楽しくもあるのだ。
 特にペコちゃんの人形は想いれも、不二家の店先でちょこんと立っていたのを思い出すからだ。
 勿論ソフビニは後の事であるが、頭の中にはペコちゃんの姿が刻まれているのだと思う。

 もう一つはのらくろの玩具、これも私にはあまり思い出もなく、SANY0462.JPGそんなに拘りもないのだが。
 ただ人気である事には変わりなく、それを手に入れていたのだと思うが、何時、何処で手に入れたのかも記憶にない。
 関心がないと言う事はそんなもので、手に入れた経緯も覚えがないと言う事は、おまけで貰った物かも知れない。
 だから記憶に無いとも言えるが、のらくろ事態に思いもないから、やはり何処かで貰ったか。
 しかしブリキの玩具は少し違うもので、遊んだ記憶もあれば手に入れた経緯もハッキリとしている。

 ブリキの玩具は好きだから、新しくても、古くても手に取ってみてしまうもの、だから覚えてもいるのだ。
 特に飛行機ものは好きで、いくつか手に入れているが、大きなものは場所を取るから小さな物にしているSANY9486.JPG
 其れでも数が多くなると場所に困ることに、だから天井につすることになるが、やはり大きなものは出来ない。
 ソコソコのもので吊るすのだが、それを見た人は不思議そうに眺めているので、ツイツイ言い訳をしてしまうのだ。
 場所がないから天上から吊るす事にしたと、やはり言い訳が先に立ち、恥ずかしさもついでに出て来る。







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2018年01月12日

お洒落

      鎖で分かる

SANY5548.JPG 男のお洒落とは何時の時代にも話題となるが、その時代時代によって当然流行があり、その流行るものによっても様々な物になる。
 何が流行るかはその時代の仕掛人に聞かなくては分からないが、其れを受け止める人もまた好みが色々あり、複雑に入り組んむものでもある。
 今の時代のように画一されたものが出回るのではなく、個人個人が流行りにあったものを独自に作り出す時代でもあったようで、出来上がったものも多種多用。
 そんな男のお洒落の1つに懐中時計があり、当時懐中時計は非常に高価なもの、一般人には高嶺の花であり、金持ち階級のステータスシンボルでもあった。
 懐中時計を持ち歩くにも当時は大変苦労をしたもの、当初の懐中時計は時計自体が大きくて重い、そんな時計を懐に入れても重くて堪らない。

 それでも男たちは懐中時計を持ち歩いたもの、お洒落も一苦労と言うよりも重労働でもあったようだが、その懐中時計も次第に小さくなり、ポケットにも納まるようになる。
 SANY3389.JPGSANY3390.JPGポケットに納まるようになると、時計は見えずその時計を吊るす鎖が出来ありが、ポケットからはみ出して見えるようなお洒落なものとなる。
 時計本体もさることながら、時計を吊るす鎖が今度は注目されるようになり、独自の発達を遂げる事に、其処に又男のプライドと好みが現れる。
 見た目には派手ではないが素材や鎖の細かな細工が発達、シンプルなものから派手で人目を引くものなど、時計よりも鎖に凝る者も現れてくる。
 写真の鎖もその1つ、普通よりも鎖状のものは太く、細工も派手で見るからに派手好み、ポケットからこのような鎖をチャラ付かせていた男は誰であろうか。
 この鎖のように一本づつ独自で職人に作られたもの、自分好みのデザインをして、男のお洒落を楽しんだであろう姿が見えるようである。
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2018年01月09日

志野と織部

    時代の流れ

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 志野焼と織部は焼き物の代名詞、桃山時代の焼き物として登場、人気を博した焼き物、特に志野焼は桃山茶陶の代表格。
 有名な卯の花垣にみる茶陶の代表、多くの茶人を虜にした茶陶の最高峰ともいえる焼き物、私も好きで何度となく見に行った。
 何度見ても惚れ惚れとする焼き物、形といい、色といい、どれをとっても申し分のない焼き物、そんな志野焼。

 実は短い間に出現し、瞬く間に姿を消してしまった焼き物で、今では桃山茶陶の数少ない焼き物として引っ張りだこである。
 真っ白な釉薬と透けて見える鉄釉の図柄、何とも言えない雰囲気を持った焼き物、多くの茶人を虜にしたのだ。
 あっという間に姿を消した志野焼、その焼き物に魅了され幾多の陶芸家が再現を試みるも、桃山陶器の再現は出来ず、断念をしている。

 有名な加藤唐九郎と荒川豊蔵、両者ともこの再現に挑んだが、結果は難しくて再現できず、如何に大変であったかを裏付けている。
 もう一つが織部焼、古田織部が考案した焼き物とされているが、このSANY0349.JPG織部焼の出現に志野焼は姿を消したと言われる。
 短い間に人の好みが変化して、志野焼は織部焼にその座を追われ、造られなくなってしまい、姿を消したともいわれる。
 一方織部焼は茶人の持て囃され、引っ張りだこの状態、その姿は独特であり、今までになかった自由なものだ。
 特に描かれた模様は千差万別ね自由な発想で描かれ、幾何学模様あり、抽象画あり、ゆがんだ形ありと、これまた自由な焼き物だ。
 志野と織部、時代の変化で人の好みが激変、これほどまでに対照的な焼き物もないほど、志野の落ち着いたものに対して、織部焼の自由奔放。
 両者の個性は対照的、何方が好きかはその人次第、何方とも言えない位に焼き物の代表格、しかし両者とも現代も人気を二分している焼き物作家。


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2017年12月29日

竹針

      エジソンも竹で成功。

あぽろ.jpg 発明王、エジソンは各種の発明をした人物であるが、科学者と言うよりも実業家と言った方がしっくりと来る。
 同時代の発明家グラハム、ベルと比べると其の差が歴然と分かると思うが、例えばエジソンより早く蓄音機を発明したベルであったが、世界中に特許を取らず発明はしたが、そのままにしていた。
 翌年にエジソンは同じ蓄音機を発明し、直ぐに特許を取得して世界的に蓄音機の発明者となってしまった。
 其ればかりか、エジソンより早く蓄音機を発明したにも拘らず、エジソンに特許を取られてしまい、折角発明したにも拘らず製造販売できず、ローヤリティーをエジソンに払って製造販売しなくては成らず、特許を取らなかったつけが降りかかってしまう。

 一方、エジソンはベルに蓄音機を発明されていたが、ベルより早く特許を取ったお陰で発明者になっていた。
 これは、ほんの一例であるがエジソンは、発明者、科学者と言うよりは、やっぱり実業家と言った方が良いと思う。
 兎に角、特許を取り他人に製造させない科学者とは別の能力も備えていたようである。
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 電球の発明に日本の京都の竹を使ったことは有名な話、金属でなく京都の竹で成功したエジソン、電球発明で更に実業家の本領を発揮。
 京都の竹を使ったことは、エジソンにとって莫大な利益をもたらすことになり、竹が幸運を呼んだ。
 
 写真は、アポロン製の蓄音機の針を入れる缶と鋏であるが、少し変わっているのは金属の針ではなく、竹で出来た針で其れを切る鋏、普通の鋏ではうまく切れず、竹針専用の鋏。
 上部に丸く穴が空いているところに竹を入れ、専用の鋏で切断きれる角度が問題で、この鋏を使わないと蓄音機の針として使えないのである。 
 やっぱり竹の針は音がやさしく響き、鉄の針より音が良い、針も金属性の物より竹、竹製が1番良く、良い音を奏でるのである。
 竹針りはレコードにも優しく、鉄針と比べれば盤の痛みが少なく、又良い音色をはじき出すと特性があり、音に拘った人たちに愛されたようだ。
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2017年12月23日

モデル

      明治初期のモデル
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 日本の時計製造の創成期、西洋時計をモデルとして日本製の時計が製造されたことは、今までにも何回も話してきたが、ではどう言う所がコピーされたのかあげてみようと思う。
 時計には本体部分と、それに付随する部分とがあり、本体は殆どの時計は同じ様な構造、同じ作り方であり、そんなに大差のない物で出来上がっている。
 しかし付随する部分は、その時計により色々な物で装飾されており、一つ一つの時計で違った物、出来上がりは別物の時計として完成することになる。
 つまり装飾が違えば、その時計は別物に成り、様々な彫SANY0864.JPGり物がつくことより、雰囲気は全く違った物になったしまうもの、要するに衣装が違えば本体は一緒でも、完成した時計の出来が違うものになる。

 これらの装飾を日本の職人が真似る事になるが、モデルが一緒であっても出来上がった物は、其々の職人の違いにより、別物に成っている事も多く、それぞれの時計製造会社が制作、それが後の日本製スリゲル型時計とる。
 初期の西洋時計をモデルと手製造されたものは、職人の感性により造り出されてSANY4385.JPGものであり、全く違っても乗り出来上がる事も多い。
 日本人の感性がその中に注入され、西洋物とは一味違ったものに、またそれを目指したとも言えるのではないか。

 写真は上ドイツ製の時計の装飾、下は日本製のもの、ドイツ物は古いもので日本の幕末期の物、この様な西洋的な彫刻がモデルとなっているが、職人は見た事もない彫り物に戸惑ったであろう。
 そして、彼らが気付いたのは日本に古来より伝わる唐草の彫り物、この彫り物と良く似ている事に気が付く、それらの彫り物は仏壇に彫られている物と共通する。
 其れも当たり前の事、1400年も前にシルクロードを経て伝わった物とルーツは同じ、しかし日本に帰化した彫り物は既に日本的な物に成ってしまい、明治に見た物とはやはり違っていた。
 当時の職人の目にはどの様に映ったのか知らないが、彼らの感性は古来人と同じであった事は、後に製造させた時計を見れば納得がゆくもの。
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2017年12月19日

ノべルティーの種類

      アメリカが

SANY3740.JPG 尾張瀬戸から海外に輸出された陶器は、江戸から現在まで営々と続けられているが、製造するものが時代と共に変わってくるし、輸出国もまた変わって来ている。
 時代、時代に商品も変わり、当然流行があるから仕方がないが、其れを製造する窯元は大変な作業を要する事になり、時代に着いて行けない窯元は自滅するしかない。

 当然の事であるが、自由競争の社会であるからには、仕方が無い事ではあり窯元の職人は、其の時代、時代の流行を把握しておかねばならない。
 昔から、瀬戸の職人は流行に敏感に反応して来たと言われ、江戸時代から歌舞伎や俳諧、江戸庶民の動向等きめ細かく情報を入手していたようであり、それを直ぐに流行を商品化する技量を持っていた。

 人気の歌舞伎役者の似顔絵をSANY3744.JPG石皿に書き写し、俳諧の流行り歌は直ぐに取り入れたりと、その道にも精通していた事が、商品化にも役に立ったのは必然の摂理。
 時代は下がり、戦前戦後の製品は時代を反映して、出来も余りよく無く、特に戦後の動乱期は最低の出来、しかし、占領下の日本製品は安く、アメリカでもてはやされた。

 商品の印は「オキュバイド、ジァパン」と書かれているが、現在は其れが人気のようで、何が流行るか分からない時代、写真の鳩時計は、戦前の商品とオキュバイド、ジャパンの物、本来は前の商品のように、錘も付いていなければならないが、殆どが無くなってしまっている。


 この様な戦前のものもあるが、戦後つくられた同じものも多くつくられ、同じように見えるが明らかな違いも、SANY3749.JPG
 また戦前の物の方が出来が良く、絵付けも良い出来上がりになっているが、戦後の物は良く見ると仕事が雑で、動乱期を物語っているようである。
  いずれにせよアメリカ向けに大量に製造されたものが、現地に存在しており、今里帰りをして人気であるよう、時代の変遷が見えて興味深い。
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2017年12月16日

ランプ時計

      時計なのに電気がつく

 SANY0568.JPG時計は当然の事時間を計る為に発明されたもの、その時計が電気を灯すとは、意味が分からない方も居るのであろうが、時計がランプとドッキングしたものだ。
 明治時代から大正時代にかけて造られたランプ時計がそれ、ランプ時計は古くから造られており、1番分かり易いものは蝋燭に目盛りを刻んだ簡単な物。
 蝋燭が次第に解けて行き、蝋燭横の目盛りが消えてゆくから、その目盛りの位置を見れば時間が分かる仕組み、単に蝋燭の横に刻みをつけただけであるが、大体の時間は分かった。
 その次に発明されたものがランプ時計、蝋燭をホヤで囲い、その外側に刻みを付け少し豪華にした物、しかし当然の事、前のものとほとんど同じで蝋燭の火が消えにくいだけの事で時間はたいして正確でない。

 その後、この形式の時計と称せられるものが、何百年に渡って使用されてきたが、機械時計が発明されSANY0567.JPGると今度は機械とランプがドッキングして、機械式のランプ時計が出現する。
 このランプ時計は時間はほぼ正確で、今までのものより遥かに正確であった物、この時計は夜に暗い所でも時間が分かり、その当時の人達にとっては便利な物であった。
 そして、電気の発明により今度は電気と時計がドッキング、電気時計が生まれ電気の付く時計が発明され、暗い家庭であった時代は過ぎ、明るい生活がやってきた。

 写真の時計は、その時代に造られたランプと電気のドッキング物、丸い球の部分に電球が入っており、点灯し前にある針で時間を表示する仕組み。
 時間は下の部分、分は上の数字と2段に別れ回転する仕組み、針は固定されたおり球体部分が回転するもの、機械式時計は一番下の土台部分に入っている。
 電機が発明された初期の物で、電気の明るさと時計の新しさが上手く融合した時計、時計の中でも傑作の1つと思われ、暗かった生活から明るい電気の生活に入った時の生き証人でもある。
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2017年12月10日

ニッパくん

      親しまれている
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 ニッパくん、西洋犬でよく見慣れた犬、レコード店の前でよく見かけた犬、世界的に有名な犬であり人気の高い犬、とまあ評判は良い。
 何処の犬かと思っていた人、そうですレコード店で見かけるあの犬、名前をニッパ君と言う犬、誰しも見慣れた犬です。
 何でレコード店にあったのか、その言われを知る人は少ないと思うが、そこには感動の物語があり、飼い主とニッパ君のつながりが見えてくる。
 その繋がりとは明治時代に遡り、処はイギリスでの話し、1884年ニッパ君が生まれ、画家であったマーク、ヘンリー、バロウドのもとに行く。

 飼い主のマーク、ヘンリー、バロウドは客の足を良く噛み付くこの犬をニッパと名付け可愛がったが、突如亡くなってしまう事になる。
 ニッパくんはマークの弟、フランシスのもとSANY4902.JPGにあづけられたが、ある日の事蓄音機がかけてある前でニッパが座っていたのをフランシスが発見する。
 その蓄音機にはマークの声が吹き込んであったらしく、ニッパ君は蓄音機から聴こえてくる、もと主人の声を不思議そうに聞いて座っていた。
 これを見たフランシスは蓄音機に聞き入るニッパ君を描く事に、蓄音機のラッパを前に首をかしげた姿を描き、「ヒス゜、マスターズ、ボイス」と題名をつけた、「彼の主人の声」と題した絵。
 その後、フランシスはこの絵を当時エジソン社に売り込みをかけたが成立せず、今度はベルリーナ、グラムホンに売込みを図った。

 当初の描いた蓄音機はエジソン社の物であったので、グラムホンの蓄音機に描きなおし商談は成立、此SANY4671.JPG処にあのニッパ君の姿が商標としてスタートした。
 あの可愛らしい姿のニッパ君、実は活発な犬であり、フォックステリア系の気が強い犬、おとなしそうに見えて実は暴れん坊でもあったらしい。
 この商標権、その後アメリカのビクター社が買い取り、ビクター犬として生まれ変わり、我々が現在見ている姿となったのだと言う。

 日本の忠犬ハチ公と共に世界的に有名となり、愛称は今でもニッパ君、マークが付けた名前の通り、噛み付き犬しとてその姿が親しみを持って愛されている。
 このニッパ君、世界的に色々な種類のものが製造され、勿論日本でも多くが製造されて市場に出ているが、姿が少しづつ違うので良く見ると違いも分かると思う。












 
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