2018年02月24日

瀬戸の磁器雛3

      呼び名が変わった
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 雛人形の呼び名が変わった物が2つあり、1つは「右大臣、左大臣」ともう1つが「衛士」の2つ、この2つが呼び名が変わったもので、今では随身と呼ばれる(右大臣、左大臣)。
 その昔から右大臣、左大臣と呼ばれていたわけではなく、一説には東京の某人形店が自分のところの雛人形にパンフレットの形で人形の飾り方を印刷、其のマニアルを付けて人形を販売した。
 其処には右大臣、左大臣と記載されており、これが全国の人形店に広がり呼び名の元となったようだが、事実はどうであったか不明な点が多い。
 只、全国的に広まったのはマニアル化された印刷物であった事は確かなようで、それ以後急速に全国に広まったことは確、この右大臣、左大臣と呼ばれた人形、弓矢を持っている。

 大臣が弓矢を持っている事は無く、正式には近衛兵の中将か少将と云われ、天皇の警備に付いた武官であり、人形店の勝手な判断が誤解を生んだもの。
 SANY1433.JPGSANY1434.JPGそしてもう1つは衛士、従者の事をよび雨傘や日傘を持っている人形、現在は仕丁と呼ばれているが人形店によっては従者となっていることもある。
 写真の随身、大正期に瀬戸で焼かれた磁器雛、可愛らしい人形で座っているが、格好が少し普通の随身と違って寛いだ雰囲気、片足を挙げてリラックスしている珍しい物。
 本来は立って警備している姿をしているのが当たり前の姿、この様にリラックスしている物は極めて珍しく、磁器雛の製作者が遊び心を持った人物であったようだ。
 そしてもう1つが、背中に背負っている矢、本来は右肩から出ているのが当たり前であるが、左の肩から出している随身もあり、左右両方から出しているのも珍しい。
 弓矢は右利きである武士は、当然のこと右肩の後ろに矢が無ければ弓に装置する際、左肩に有る事事態ありえない話だが、現在製造されている雛人形を見るに、左肩に背負っている物が多いのは何故であろう。







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2018年02月14日

意外な図柄

    美人画の大家

 SANY3606.JPG伊東深水、日本画の大家、美人画を描かせたら右に出る者はないとまで言われた画家、特に和服姿の美人画は人気。
 戦後の日本画を代表する画家であり、昭和を彩った大家としても有名、しっとりとした美人を描いた。
 そんな深水が、堀田時計の依頼で版画を制作していて、その版画も古時計愛好家から絶大な支持を得ていることは事実。
 勿論古時計を題材に独特の美人を描いた作品、堀田版として愛好家に人気なものだが、数も多い。
 特に昭和30年代の堀田版ものは良い図柄の物があり、それを求めて古時計愛好家があちこちと探しているのだ。
 やっぱり和時計を題材とした美人画は特に人気で、市場に出れば引っ張りだこの争奪戦、値段も高くなってしまった。
 以前私もその和時計を題材とした堀田版ものを手に入れようと、探し回ったがそれでも高くて中々手が出せなかったものだ。

 この深水の堀田版は古時計愛好家なら一つや二つは持っていると思うが、中にはこのシリーズを全部集めている人も居る。
 熱狂的な深水ファン、本物の深水の絵は高くてとても手がSANY3537.JPG出せないが、この堀田版であれば手に入れられる。
 そんな堀田版の中でもなかなか手に入らないのが、フランス人形を描いたもの、深水がフランス人形を描くとは。
 日本美人が得意な深水、まさかフランス人形を描いているとは意外であったが見てみると、深水らしい描き方だと思う。
 確かにフランス人形に違いはないが、顔だちとか目に日本画の雰囲気が漂っているのだと思う。
 そして、もう一つが娘の朝丘雪路をモデルとしたと言われる現代的な美人、深水がこんな絵を描くのかと思う。
 確かに現代的な顔立ちと色使い、白と赤とのコントラス、確かに現代的であるが、ヤッパリ日本画の大家。
 現代的であっても、そこは日本画家であり、随所に日本画の色使いが出ているのだと思わざるを得ない作品。





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2018年01月28日

珍品陶製の梵鐘

      代用品の傑作
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 愛知県瀬戸市と言えば千年の昔から陶器の生産地、日本六古窯の1つで、一番は古くから釉薬を掛けた陶器を製造していた土地、加藤藤四郎を陶祖として栄えてきた。
 瀬戸で作れない物は無いといわれた土地、昔から職人たちは陶器の製造には研究熱心で、色々な物に挑戦をしていることは、あちらこちらで発掘されたものから分かる。
 当時の職人魂を見る思い、発掘された物の中には現在何に使用したのか分からない物も多く、当時の職人が如何に色々な物に挑戦していた証である事が分かる。

 そんな瀬戸市内に、陶製の梵鐘があるが余り知られていないが、戦争の副産物として造らせたせいであろうか、世界広しと言えども陶製の梵鐘があるのは瀬戸しかSANY1507.JPG無い。
 この梵鐘、瀬戸市内中央部にある法雲寺、創建は明治と新しいお寺であり、其のお寺の境内に現在は鐘楼下に置いてあるが、見学は何時でも出来る。
 実際に見学すると大きな物で、鐘を吊り下げる金具の高さまで150センチ位の梵鐘、所々に欠けたところがあるから、之が銅製の金属で出来た物ではない事は、誰が見ても直ぐに察しはつく。

 しかし、この梵鐘を目の当りにすると迫力があり、こんな大きな物を陶器で製造しようとした、当時の職人たちの心の動きが分かる気がして、何だか胸が詰まる思い。
 戦争中に金属を供出され、お寺の梵鐘まで無くなって、檀家たちだけでなく人々は鐘楼から消えた梵鐘に思いを馳せ、陶器で製造することを思い立ったのであろう。
 梵鐘の無い鐘楼は魂が無いとSANY1509.JPG同じもの、其の魂を陶器で造りだろうとした当時の職人たちの心意気と、戦争に対する抵抗感が受け取れるような気がしてならない。
 こんな物まで造り出した瀬戸の職人たちの底力を見た思い、伝統に培われた技術はどんな時にも、其の力を発揮するものでもあると、改めて思いを新たにすることが出来た。
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2018年01月24日

幻のオリンピック

      照らす灯り

SANY5177.JPG 東京オリンピック、2020年に東京で開催されることが決定しているが、昭和のはじめアジアで最初のオリンピックが東京で開催されることが決定。
 1936年、IOCの総会で次回のオリンピックをアジア初の東京で開催する事が決定、しかしこの時日本は中国との戦争に突入する前夜でもあった。
 軍部の中国進出の働きが強くなり、支那事変へと発展してゆく事になり、戦争に突入してしまい、国際的にも孤立を高めて行くことと、結果はオリンピック辞退へとなる。
 アジアではじめてオリンピックを開催するという事に全力を傾けてきた日本IOCも、結局は軍部の力の前には、なすすべもなく打ち砕けてしまった。

 当時、国民の間にも初SANY8721.JPGめて日本で開催されるオリンピックを歓迎し、その機運も上々であった事は確か、巷ではオリンピックムードが盛り上がろうとしていた。
 それを先取りして、国内ではお祝いムードが持ち上がって来たとき、軍部による圧力が国民を押さえつける事に、オリンピックを開く予算があるのならば、戦時下戦争の軍需品に回すのが当たり前と圧力をかけたのだ。
 日本は昭和15年、紀元2600年祭を控えており、これをも擁す事が最大の課題、その一環として東京でオリンピックを開催する事、しかし戦況は着実に悪化していた。
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 国際社会からも圧力が強くなり、軍部の責めつけも激しくなる事で、結局東京でのオリンピックは辞退せざろう得ない状況に陥る。

 しかし民間はオリンピック目当ての商材を数多く計画、オリンピック景気にあやかろうと、あれこれと商品開発を推し進めていた。
 今回紹介するランプもその1つ、オリンピック記念として売り出すために計画されたもので、聖火ランナーをモチィーフにした電気スタンドを製造する事になる。
 合金による鋳造だが、余り良い合金ではなく、物資が段々と厳しくなる予兆みたいな造り、全体に薄く仕上げられ、今一迫力に欠けるものである。
 やはり当時の世相をSANY8738.JPG現していることは間違いなく、オリンピックの記念商品として発売するつもりで製造しているが、日本のおかれている立場を表しているかのようだ。

 聖火ランナーの頭の上には日本の国旗とオリンピアの文字が見え、その下には1940年の年号が刻まれており、東京オリンピック記念だと分かるのだ。
 見た目には重量感がある様に思えるが、実際に手にとって持ち上げて見ると、その軽さに驚くのであり、戦時下であった事を改めて感じる。
 結果、この商品は販売されることはなく、お蔵入りとなったのであろうと思うが、どけだけ製造されたものなのか、そして損失は大きかったろうと想像が付く。
 幻のオリンピックとなった1940年(昭和15年)の東京大会、この外にも数々の商品が製造されたが、当時日の目を見ることはなく、今日その名残を伝える証しとして存在している。

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2018年01月09日

志野と織部

    時代の流れ

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 志野焼と織部は焼き物の代名詞、桃山時代の焼き物として登場、人気を博した焼き物、特に志野焼は桃山茶陶の代表格。
 有名な卯の花垣にみる茶陶の代表、多くの茶人を虜にした茶陶の最高峰ともいえる焼き物、私も好きで何度となく見に行った。
 何度見ても惚れ惚れとする焼き物、形といい、色といい、どれをとっても申し分のない焼き物、そんな志野焼。

 実は短い間に出現し、瞬く間に姿を消してしまった焼き物で、今では桃山茶陶の数少ない焼き物として引っ張りだこである。
 真っ白な釉薬と透けて見える鉄釉の図柄、何とも言えない雰囲気を持った焼き物、多くの茶人を虜にしたのだ。
 あっという間に姿を消した志野焼、その焼き物に魅了され幾多の陶芸家が再現を試みるも、桃山陶器の再現は出来ず、断念をしている。

 有名な加藤唐九郎と荒川豊蔵、両者ともこの再現に挑んだが、結果は難しくて再現できず、如何に大変であったかを裏付けている。
 もう一つが織部焼、古田織部が考案した焼き物とされているが、このSANY0349.JPG織部焼の出現に志野焼は姿を消したと言われる。
 短い間に人の好みが変化して、志野焼は織部焼にその座を追われ、造られなくなってしまい、姿を消したともいわれる。
 一方織部焼は茶人の持て囃され、引っ張りだこの状態、その姿は独特であり、今までになかった自由なものだ。
 特に描かれた模様は千差万別ね自由な発想で描かれ、幾何学模様あり、抽象画あり、ゆがんだ形ありと、これまた自由な焼き物だ。
 志野と織部、時代の変化で人の好みが激変、これほどまでに対照的な焼き物もないほど、志野の落ち着いたものに対して、織部焼の自由奔放。
 両者の個性は対照的、何方が好きかはその人次第、何方とも言えない位に焼き物の代表格、しかし両者とも現代も人気を二分している焼き物作家。


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2017年12月29日

竹針

      エジソンも竹で成功。

あぽろ.jpg 発明王、エジソンは各種の発明をした人物であるが、科学者と言うよりも実業家と言った方がしっくりと来る。
 同時代の発明家グラハム、ベルと比べると其の差が歴然と分かると思うが、例えばエジソンより早く蓄音機を発明したベルであったが、世界中に特許を取らず発明はしたが、そのままにしていた。
 翌年にエジソンは同じ蓄音機を発明し、直ぐに特許を取得して世界的に蓄音機の発明者となってしまった。
 其ればかりか、エジソンより早く蓄音機を発明したにも拘らず、エジソンに特許を取られてしまい、折角発明したにも拘らず製造販売できず、ローヤリティーをエジソンに払って製造販売しなくては成らず、特許を取らなかったつけが降りかかってしまう。

 一方、エジソンはベルに蓄音機を発明されていたが、ベルより早く特許を取ったお陰で発明者になっていた。
 これは、ほんの一例であるがエジソンは、発明者、科学者と言うよりは、やっぱり実業家と言った方が良いと思う。
 兎に角、特許を取り他人に製造させない科学者とは別の能力も備えていたようである。
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 電球の発明に日本の京都の竹を使ったことは有名な話、金属でなく京都の竹で成功したエジソン、電球発明で更に実業家の本領を発揮。
 京都の竹を使ったことは、エジソンにとって莫大な利益をもたらすことになり、竹が幸運を呼んだ。
 
 写真は、アポロン製の蓄音機の針を入れる缶と鋏であるが、少し変わっているのは金属の針ではなく、竹で出来た針で其れを切る鋏、普通の鋏ではうまく切れず、竹針専用の鋏。
 上部に丸く穴が空いているところに竹を入れ、専用の鋏で切断きれる角度が問題で、この鋏を使わないと蓄音機の針として使えないのである。 
 やっぱり竹の針は音がやさしく響き、鉄の針より音が良い、針も金属性の物より竹、竹製が1番良く、良い音を奏でるのである。
 竹針りはレコードにも優しく、鉄針と比べれば盤の痛みが少なく、又良い音色をはじき出すと特性があり、音に拘った人たちに愛されたようだ。
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2017年12月23日

モデル

      明治初期のモデル
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 日本の時計製造の創成期、西洋時計をモデルとして日本製の時計が製造されたことは、今までにも何回も話してきたが、ではどう言う所がコピーされたのかあげてみようと思う。
 時計には本体部分と、それに付随する部分とがあり、本体は殆どの時計は同じ様な構造、同じ作り方であり、そんなに大差のない物で出来上がっている。
 しかし付随する部分は、その時計により色々な物で装飾されており、一つ一つの時計で違った物、出来上がりは別物の時計として完成することになる。
 つまり装飾が違えば、その時計は別物に成り、様々な彫SANY0864.JPGり物がつくことより、雰囲気は全く違った物になったしまうもの、要するに衣装が違えば本体は一緒でも、完成した時計の出来が違うものになる。

 これらの装飾を日本の職人が真似る事になるが、モデルが一緒であっても出来上がった物は、其々の職人の違いにより、別物に成っている事も多く、それぞれの時計製造会社が制作、それが後の日本製スリゲル型時計とる。
 初期の西洋時計をモデルと手製造されたものは、職人の感性により造り出されてSANY4385.JPGものであり、全く違っても乗り出来上がる事も多い。
 日本人の感性がその中に注入され、西洋物とは一味違ったものに、またそれを目指したとも言えるのではないか。

 写真は上ドイツ製の時計の装飾、下は日本製のもの、ドイツ物は古いもので日本の幕末期の物、この様な西洋的な彫刻がモデルとなっているが、職人は見た事もない彫り物に戸惑ったであろう。
 そして、彼らが気付いたのは日本に古来より伝わる唐草の彫り物、この彫り物と良く似ている事に気が付く、それらの彫り物は仏壇に彫られている物と共通する。
 其れも当たり前の事、1400年も前にシルクロードを経て伝わった物とルーツは同じ、しかし日本に帰化した彫り物は既に日本的な物に成ってしまい、明治に見た物とはやはり違っていた。
 当時の職人の目にはどの様に映ったのか知らないが、彼らの感性は古来人と同じであった事は、後に製造させた時計を見れば納得がゆくもの。
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2017年12月16日

ランプ時計

      時計なのに電気がつく

 SANY0568.JPG時計は当然の事時間を計る為に発明されたもの、その時計が電気を灯すとは、意味が分からない方も居るのであろうが、時計がランプとドッキングしたものだ。
 明治時代から大正時代にかけて造られたランプ時計がそれ、ランプ時計は古くから造られており、1番分かり易いものは蝋燭に目盛りを刻んだ簡単な物。
 蝋燭が次第に解けて行き、蝋燭横の目盛りが消えてゆくから、その目盛りの位置を見れば時間が分かる仕組み、単に蝋燭の横に刻みをつけただけであるが、大体の時間は分かった。
 その次に発明されたものがランプ時計、蝋燭をホヤで囲い、その外側に刻みを付け少し豪華にした物、しかし当然の事、前のものとほとんど同じで蝋燭の火が消えにくいだけの事で時間はたいして正確でない。

 その後、この形式の時計と称せられるものが、何百年に渡って使用されてきたが、機械時計が発明されSANY0567.JPGると今度は機械とランプがドッキングして、機械式のランプ時計が出現する。
 このランプ時計は時間はほぼ正確で、今までのものより遥かに正確であった物、この時計は夜に暗い所でも時間が分かり、その当時の人達にとっては便利な物であった。
 そして、電気の発明により今度は電気と時計がドッキング、電気時計が生まれ電気の付く時計が発明され、暗い家庭であった時代は過ぎ、明るい生活がやってきた。

 写真の時計は、その時代に造られたランプと電気のドッキング物、丸い球の部分に電球が入っており、点灯し前にある針で時間を表示する仕組み。
 時間は下の部分、分は上の数字と2段に別れ回転する仕組み、針は固定されたおり球体部分が回転するもの、機械式時計は一番下の土台部分に入っている。
 電機が発明された初期の物で、電気の明るさと時計の新しさが上手く融合した時計、時計の中でも傑作の1つと思われ、暗かった生活から明るい電気の生活に入った時の生き証人でもある。
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2017年12月10日

ニッパくん

      親しまれている
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 ニッパくん、西洋犬でよく見慣れた犬、レコード店の前でよく見かけた犬、世界的に有名な犬であり人気の高い犬、とまあ評判は良い。
 何処の犬かと思っていた人、そうですレコード店で見かけるあの犬、名前をニッパ君と言う犬、誰しも見慣れた犬です。
 何でレコード店にあったのか、その言われを知る人は少ないと思うが、そこには感動の物語があり、飼い主とニッパ君のつながりが見えてくる。
 その繋がりとは明治時代に遡り、処はイギリスでの話し、1884年ニッパ君が生まれ、画家であったマーク、ヘンリー、バロウドのもとに行く。

 飼い主のマーク、ヘンリー、バロウドは客の足を良く噛み付くこの犬をニッパと名付け可愛がったが、突如亡くなってしまう事になる。
 ニッパくんはマークの弟、フランシスのもとSANY4902.JPGにあづけられたが、ある日の事蓄音機がかけてある前でニッパが座っていたのをフランシスが発見する。
 その蓄音機にはマークの声が吹き込んであったらしく、ニッパ君は蓄音機から聴こえてくる、もと主人の声を不思議そうに聞いて座っていた。
 これを見たフランシスは蓄音機に聞き入るニッパ君を描く事に、蓄音機のラッパを前に首をかしげた姿を描き、「ヒス゜、マスターズ、ボイス」と題名をつけた、「彼の主人の声」と題した絵。
 その後、フランシスはこの絵を当時エジソン社に売り込みをかけたが成立せず、今度はベルリーナ、グラムホンに売込みを図った。

 当初の描いた蓄音機はエジソン社の物であったので、グラムホンの蓄音機に描きなおし商談は成立、此SANY4671.JPG処にあのニッパ君の姿が商標としてスタートした。
 あの可愛らしい姿のニッパ君、実は活発な犬であり、フォックステリア系の気が強い犬、おとなしそうに見えて実は暴れん坊でもあったらしい。
 この商標権、その後アメリカのビクター社が買い取り、ビクター犬として生まれ変わり、我々が現在見ている姿となったのだと言う。

 日本の忠犬ハチ公と共に世界的に有名となり、愛称は今でもニッパ君、マークが付けた名前の通り、噛み付き犬しとてその姿が親しみを持って愛されている。
 このニッパ君、世界的に色々な種類のものが製造され、勿論日本でも多くが製造されて市場に出ているが、姿が少しづつ違うので良く見ると違いも分かると思う。












 
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2017年12月03日

試行錯誤

      イギリス向け
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 オールドノリタケ、明治期日本で製造された輸出陶磁器、森村市左衛門が名古屋市則武で製造した陶磁器、当時製造されたものをオールドノリタケと言う。
 少し前までオールドノリタケはブームで異常なまでの人気、海外からの里帰りが多く需要に追いつかず、値段が跳ね上がってしまったが、今は下火となり少しは買い易くなった。
 また皆が思っていたよりも数はソコソコあり、希少価値と言われた時よりも多く、コレクターもこれを知ってから陰りが出て来たが、良いものは少ない。

 少し業者にあおられ過ぎて高く買いこんでしまった人も、今は冷静に物を見つめて、良いものだけを手に入れている人も、一時期の異常加熱はなくなった。
 逆な意味で言えば、今が自分にあったものをジックリと探し、安い値段で買えるから、買いやすいことは確か、又何時も出回っているから、ゆっくり見て探した方が良いと思う。
 勿論このオールドノリタケ、非常に良い品も多く、今では中々作れないものもあり、美術品としての価値も、しかし我々には楽しんで使える物の方が良いと思う。SANY6094.JPG

 現代のものを同じ値段で買い込むならば、やっぱりオールドノリタケにした方が良いと思うが、人其々だからなんとも言えないが。
 中には古いものは汚いから嫌と言う人も多く、何で古いものを買わなければイケないのかと、そんな人も多くいるとも、確かにその意見もある。
 ただ現在では製造出来ないくらいに手の込んだものも多く、其れを今買おうとすれば高額な値段でなければ買えないと思う、新しい物の方が良い人は、それで良いと思う。

 今回のオールドノリタケ、デミタス式のカップで少し小さいもの、当時の流行のカップでもあり、イギリス向けに製造されたもの、トレードマークは緑色の丸木のマーク。
 白地に鮮やかなコバルトブルー、その上に金盛りと言う仕上げがしてあり、豪華な雰囲気のするもの、鳥の図柄と花が描かれている。

 SANY6084.JPGSANY6129.JPG金は分厚く塗られており、輝きは今でも当時のまま、金色に輝く鳥たちは生き生きとして空を待っているかのような雰囲気が、当時の力の入れようが伝わった来る。
 この手のカップは市場でも良く見かけるから、数が多く製造されたものなのか、当時は人気な商品であったようだと思われる。
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2017年12月02日

蝋燭立て

      異国の香り一杯

SANY4127.JPG 蝋燭が日本に伝わってのは奈良時代とされているが、それ以前にも渡来しているとの説も、中国から仏教伝来と同時にもたらされたとする説もある。
 一般庶民が使うのではなく、宗教的なものに使われていたようで、其れに伴い蝋燭たてもまた発展するが、之もやはり庶民の間ではなく身分の高い人達の物であったようだ。
 安土桃山時代にキリスト教が広まりをみせ、外国から宣教師が多く日本に入ってくるが、彼らは西洋文化を持ち込むと同時に日本の文化も持ち帰っている。
 この様な文化交流から生まれてくるものが燭台、日本に来た宣教師たちは当時の茶の湯を取り込み、キリスト教の布教に利用、そこから生まれた来たとされるのが蝋燭立て。SANY4140.JPG

 彼らの本国に報告された文章の中に茶の湯の事が書かれていて、布教するに当たって「茶の湯は避けて通れないもの」と、記述していることが判明している。

 安土桃山期に古田織部によって造られた「織部焼きと証する焼き物」の出現、緑色の釉薬で彩色された焼き物が流行、その織部釉で燭台を造りあげる。
 それも南蛮人と称せられた異国の人をかたどった焼き物、これを教会で使用したのが始まりとされているが、その後一般にもひろがったようである。
 写真の燭台、現代ものとして再現されもの、南蛮人(神父の姿)を模った蝋燭立て、これは当時の形ではなく後になって造られた複製品、上部半分に織部釉がかけられ下部は白色の釉薬。
 如何にも南蛮渡来の蝋燭たてに見えるが、よく見SANY4132.JPGると日本の絵柄が描かれ独特の雰囲気を醸し出した蝋燭立てになっており、当時の流行の先端を行った焼き物であった。

 安土桃山時代に、こんな焼き物が造られていたとは非常に興味が湧く所、当時の人はどんな反応をしてのであろうか、この燭台のもとでキリスト教に改宗した人々が神に祈ったであろうかと思いをはせる。
 実際に流行であったよう、別に信仰心からつくられたものではないようだ。
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2017年11月30日

輸出向け用

      早くから
小.jpg
 西洋時計をモデルとした時計グッツは明治から色々な物に造られて、市場に出回っているが、明治末期には海外に向けて輸出をし始める事になる。
 最初は国内向けの限られた範囲の物が製造されていたが、次第に海外向けの商品を開発、そして国内向けよりは多くの製品が、海外に輸出されるまでに発展してゆく。
 初めに花生けなどのいたって種類の少ない物が輸出されていたが、市場の要求に答える形で、色々な製品が作られるようになり、そして独自な商品も多く造られるようになる。
 はじめは東南アジアが主体であったが、後にはヨーロッパ向けの商品が海外のバイヤーによって、工賃の安い日本での製造以来が殺到する事となる。

 手先の器用な日本人の高い技術と製造の正確さが、海外のバイヤーの目に止まり、其れまでヨーロッパで製造されていたものが、日本に製造を依頼してくる。
 はじめは、ドールハウス用の細かな商品ばかりであり、ヨーロッパでも子供向けの安価な物が大半、高級品はマイセン等のヨーロッパの窯元に製造を依頼していた。

 日本での製造は、主に瀬戸地方で製造され、其の技術SANY3475.JPGの高さが認められると供に、マイセン等に発注していた高級品も次第に瀬戸に製造依頼が来る事になる。
  写真に上げた物は大正末期からに瀬戸で作られたドールハウス用の小物、大きい物で10センチ、小さいものは2センチ、子供用のものから、大人が楽しむドールハウス用の時計グッツである。
 左のグランドファーザーや置時計などは非常に精工で出来の良いもの、これらはやはり大人用であり、高価な時計グッツであったものと思われる。

 そして戦後、アメリカ向けに大量に製造されてものが、下の段右二つ、オキバイド、ジャパンと記されているものだ。
 この手のドールハウスは大量に造られてはいるが、手の込んだ作業がされており、大量生産とは一線をかくしたものである。
 マイセンに負けることなく、瀬戸製の出来の良さは定評があり、海外で高く評価されたもので、信頼感もあったようだ。
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2017年11月13日

和製ステンドガラス 

      独特の色合い

SANY2997.JPG ステンドガラス、朝日や夕日が差し込むと、鮮やかな色の帯が長く床に落ち、幻想的な雰囲気をかもし出すが、この瞬間がステンドガラスの魅力である。
 建物を建てるときに、何処の窓が1番日の光を取り入れられるのか、そして部屋のどの位置に光の帯を落とすのか、設計者の腕の見せどころでもあるだろう。

 ステンドガラスいと言えば、殆どの人は教会のあのガラス戸を連想されるであろうし、事実教会が身近で1番多くのステンドガラスが存在している所でもある。
 ステンドガラスは、元々教会の窓ガラスを飾るために作られたと云われていて、キリストの誕生から復活までの、一生をガラスで現した物が起源であるらしい。
 その為に、いかにキリストらしい厳かな雰囲気を作り出すために、作者は苦心惨憺制作に没頭したらしく、その出来の良し悪しが教会の格にも影響したらしい。
 ステンドガラスの歴史も古く、昔から宮殿の装飾として多く用いられて、独特の発達をとげて、中世の教会を飾るまでに進化して、職人たちの腕の見せどころでもあっSANY2999.JPGた。

 複雑の色ガラスをふんだんに使い、教会の大きな窓一杯にガラスで彩ったステンドガラス、しかし、日本人にとっては少々色がきつくて、中々馴染み深くならなかったようである。
 しかし、明治の文明開化の頃より、日本建築にもステンドガラスが盛んに用いられ、特に西洋館には盛んにステンドガラスが嵌められ、異国情緒をかもし出したようである。

 明治時代に日本で製作されたステンドガラス、西洋物とは少し違い色合いも淡いもの、日本人に合った色使いをされているものだ。
 当時の西洋風の建物に嵌めるために制作されたもので、雰囲気を損ねない工夫が色々と考えだされた傑作が多いと言われる。
 その後日本建築に合う様々な日本製のステンドガラスが造られたようだ。
 上のステンドガラスは私が気に入って買い求めた物、ハチドリが2匹木の蜜をとっているかわいらしい物で、大正時代の造りらしい色合いが落ち着いていて、日本の建築には合っている様だ。
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2017年10月07日

和製ステンドガラス 

    合うものは少ない

斜め.jpg ステンドガラスの西洋物は中々日本の家屋にあうものがなく、探すのに苦労する。
 西洋物のステンドガラス、最近は数も多くてサイズも多い、しかし日本の家屋に合う物は中々無く、その物単体を見ている分には、気に入っても自分の家に合うのかと思うと、考えさせられるものも多い。

 その物を気に入っても家との調和が取れなく、ステンドガラスとしては素晴らしく気に入っても、サイズもやはり関係して、何処に設置するのか考え込んでしまうものも多いのでは。

 西洋物のステンドガラスといっても、イギリス、フランス、イタリア、アメリカなど色々な国のものがあり、現在はイギリス物が多いのか、アメリカ製のステンドも最近は多いみたい。
 イギリス製のステンドは日本に入ってくる物は、ドアー付きの物やガラス戸的感じの物が多く、使い勝手はイギリス物の方が良いのか、フランス製のものは、絵画的なステンドガラスが多いのかも知れない。
鳥.jpg
 もちろん日本製のステンドガラスも存在しているが、西洋物に比べれば遥かに少なく、その反面最近では日本のステンドガラスに人気が集中し、値段も高くなっている様で手に入れるのが難しくなっている。
 日本製のステンドガラスの種類は二つに分かれ、絵画的に作られた物と、色ガラスの単純な組み合わせの物と二    種類が存在しているが、絵画的な物は少なく、値段もそれは非常に高い。
                                                                                             日本製のステンドガラスは欲しいが、気に入ったものとなると値段が、幾ら気に入っても値段が高くては二の足を踏む。
 サイズもぴったりと合うのに値段が、雰囲気も図柄も良い、我が家に是非とも欲しいと思うが、やっぱり値段が。

 有名なステンドガラス作家のものは、数が少なく値段も高いが、市場に出て来るのも少ないから、手に入れるのもかなり厳しく情報を早く手にすることである。
 色ガラスの組み合わせ物は、絵画物よりは数は多く有るから、ジックリと待てば、良いものも手に入れることが出来る可能性は高く、自分の好きな色柄を選べば良い。

 

 
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2017年09月29日

招き猫7

      瀬戸と常滑


 DSCN1699.JPG招き猫の歴史は古く、以前名も説明をしたが江戸時代に遡り、その起源は中国の故事に成るが、日本ではそんなに古くなく江戸に入ってからの事。
 各地で盛んに作られるようになり、発祥の元祖争いがあちらこちらであり、自分のところが発祥と譲らず、元祖争いをしているようで嘆かわしい限りだ。

 招き猫にされた猫の方が迷惑しているかも、それはさておき瀬戸と常滑は今でも招き猫の産地として競い合っているが、瀬戸と常滑とは材質も形も違っている。
 一般の人から見るとドチラがドチラか全く区別が付かないようであるが、1番分かりやすいのは叩いてみる事、瀬戸の招き猫は磁器で製造されているから、硬くて叩けば高い金属的な音がする。

 一方の常滑の招き猫は、陶器で出来ている為に叩けば鈍い低い音がするので、瀬戸との区別が簡単に分かるはず、しかし音だけでは区別が付かない人も居るであろう。
 瀬戸で製造されている招き猫は、磁器で製造されているから硬くて丈夫、何よSANY0188.JPGりも光沢があり豪華美しい出来である。

 一方の常滑の招き猫は燃焼温度が低く、強度の面で磁器には及ばず光沢も無いが、安価なのが受けて販売は好調、招き猫の顔を見ても、現代的な猫の顔をしているし、可愛らしく仕上がっている。

 瀬戸の招き猫は伝統的な仕上がり、顔はより現実の猫に近く厳しい顔をし、やはり縁起物らしくキリリとした姿をしている事と、シンプルな伝統を重んじた物。
 
 そしてもう1つの違いは、常滑の猫は小判を抱いているが、瀬戸の招き猫は何も持っていなく
て落ち着きのある猫。

 派手で「現代的な招き猫」か、シンプルな「伝統的な招き猫」かは其々の特徴であり、好みも問題であるに違いない。 
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2017年09月11日

父親の形見

      懐  中  時  計 


SANY2954.JPG 父親が蒐集したものは色々な物があり、亡くなってあと4人兄弟で分けることに、それぞれが欲しい物を取ることにしたが、それは面白い結果であった事を思い出す。
 私の兄弟は其々に欲しい物を取って遺品分けをしたが、殆どが骨董品、その価値は本人たちもまったく分からず、私は最後でよいから上の兄弟に取る様に進めた。

 そして各々が好きな物を取った後、残った物を私が受け継ぐ事になったのであるが、残ったものは全てが古くて余りきれいな物は1つもなかった。
 しかし、残ったものは私から言わせれば、兄弟が其々に取った物より遥かに価値の高い物ばかり、それもそのはずで骨董品は中々見分けるのは難しく、骨董に経験がない兄弟は分からぬもの。
SANY2966.JPG
 私が持ち帰った物の中に、この懐中時計が入っていた事に気が付いたのは数年後、母にその話をした時、父親が生前この懐中時計を修理しようと時計屋に持っていったが、修理できないと言はれ修理を諦めたと聞き、それではと早速修理する事にした。

 知り合いの修理屋に持っていったが、「今部品が無いので、部品さえあれば修理できるのだが」と時計屋の主人、仕方なく部品を探す事にしてあちらこちらに部品を探してくれる様に頼み回った。
 後日、頼んだ友人から電話が入り「部品が手に入ったから取りに来る様に」との事、早速部品を貰いに急行すれば、修理の安い所があるから時計を持って来るようにとの事。

 やっぱり持つものは友人であると感謝しつつ修理SANY2960.JPGを頼み、父親が修理できなかった時計を短時間で修理出来、私の手元に帰った来たが、以前の時計よりも遥か綺麗に磨きもかけられて、別の時計と思うほど輝いていた。
 早速母にその時計を見せれば、父親は「生前口癖のように何処か直してくれる所があれば」と言っていたよし、仏壇に供えて修理できた事を報告し家に持ち帰った。 
 
 大正期のスイス製ロンジンの懐中時計、アールデコ様式の薄型、父親の若い頃に流行の時計であったようで、大事に使っていたらしいのでキッチリ保管する事にした。
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2017年08月20日

競争相手

      マイセンと肩を並べ


SANY2970.JPG 戦前戦後を通じて瀬戸の焼き物は飛躍的に進歩するが、1番変わったのは置物を製造する窯元、当時ドイツが生産の主要国であったが戦後は瀬戸がそのドイツと入れ替わる事に。

 ノベルティーと呼ばれる置物、当時世界ではドイツのマイセンの置物が世界最高峰として君臨していて時代、マイセンの置物は精密な技術により最高の置物を、上流階級向けに製造していた。

 一方瀬戸の置物はのっぺりとした立体感の無い置物であり、とてもマイセンと対抗できる代物でなく、ヨーロッパ市場に食い込むことは難しかったようだ。
 そもそも瀬戸のノベルティーは明治36年、「加藤佐太郎」が水に浮く陶器で出来た、「浮き玉」と呼ばれる「金魚や亀」を開発、これが当時爆発的に売れ、一躍瀬戸の主要輸出商品となる。
SANY2974.JPG
 海外での浮き玉の売れ行き好調に気を良くした「加藤佐太郎」は本格的にノベルティー部門に参入する事にし、商品開発に力を注ぐとにより、複雑な石膏型の開発に成功する。

 この「石膏型」の開発により、今までの瀬戸の置物ののっぺり感を一掃、精密な置物を製造することが出来るようになり、マイセンの置物を参考にドレスデン人形なるものを製造して技術を磨く。

 その結果、マイセンに見劣りする事のない商品の開発に成功、之によりヨーロッパ市場に於いても、マイセンと肩を並べるまでに生長して行く事になる。

 戦後は、ドイツのマイセンが輸入されなくなったアメリカ市場に、マイセンに取って代わり瀬戸のノベルSANY2980.JPGティーが市場を占有、アメリカの中流階級に大いに持て囃される事となる。
 しかし、輸出が主であった事も有り、瀬戸のノベルティーは世界最高峰にありながら、国内ではその存在を知る人は少く、評価が低いのは残念な事である。















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2017年08月13日

蚊取り線香

    何やら雲行きが怪しい。


SANY3005.JPG 夏と言えば蚊取り線香、緑色をした渦巻状の形をした馴染み深い線香、陶器の器に入れて蚊から我々を守ってくれたあの線香。
 夏は蚊帳と蚊取り線香と決まっていた時代、この2つは切っても切り離せない存在であったが、昨今この2つが消えかけている。

 蚊帳は一足先に其の使命を終えたかのようだが、蚊取り線香のあの渦巻きはまだ健在であるが、此処えきて何やら雲行きが怪しくなっているようだ。
 今や夏はエヤコンが主流で、部屋を閉め切ってしまう、渦巻状の蚊取り線香は煙が出る為、エヤコンを掛けて使用できなくなっている様だ。
 
 独特の香りと、煙で人々を百年以上昔から蚊の攻撃から守ってきてくれた蚊取り線香、生活スタイルが変わってしまい、其の役目を終えてしまうのか。
 あの、有名なコマーシャル「日本の夏、キンチョウSANY3009.JPGの夏」で一世を風靡した蚊取り線香、おまえは何処に行こうとしているのか。
 
 今主流の電気蚊取りに、あっけなく主役の場を明け渡してしまうのか、それとも我々がエヤコン離れをするのか、選択するときが来てしまったのか。
 しかし、電気蚊取りはやっぱり喉には良くないと私は思う、天然の植物から作られる蚊取り線香の方が体に良いはずであるが、あの煙が何とか成らないのか。

 煙が蚊取り線香の武器で、其れを取ってしまったら役に立たないのか、結論は私には分からないが、何とか残して欲しい夏の風物でもあるから。
 
 あの、昔から受け継がれた独特のデザイン、箱を開けた時の、あの匂い、そして緑色の渦巻き、どれを取っても日本の夏の主役である、この試練を香取り線香は是非とも乗り越えて欲しいと願う。
 
 
 
 
 
 
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2017年08月12日

明治の宣伝ビラ

      今も昔も宣伝第一

SANY0181.JPG
 宣伝をすることは今の時代だけではなく、昔から宣伝は商売の鉄則みたいな物であり、今に始まった事ではなく古くから行われていた様で、その方法は様々だった。
 江戸時代に於いても宣伝は商売には欠かせないもの、例えば良く知られたてるのが土用の丑の日、鰻やが夏は客が来なくて困っていたのを、平賀源内が丑の日に鰻を食べると精がつき病気にかからないと、張り紙を出し客を寄せたのが始まり。
 結果、その張り紙1つで客が寄って来て鰻屋は繁盛したらしい事は、現在も良く知られている最も効果の上がった宣伝であったようだ。

 ここに上げた写真のビラは、明治初期に大阪の時計店が出したもの、当時のハイカラな宣伝ビラと昔ながらの宣伝ビラの2つ、片方はとても日本の宣伝ビラとは思えない物。
 小さな子供が時計を手にしている姿が印刷されているが、当時としては画期的な宣伝ビラであったようで、舶来信仰の高い日本人消費者の心を射止めたようである。
SANY2817.JPG
 一方、同じ店で出した宣伝ビラ、これは昔ながらの文句で書かれたもの、写真や絵などは無く文字ばかりで書かれたビラ、両方とも同じ解けて印から出されているとは思えないもの。
 この宣伝ビラを出したのは大阪の時計商「石原時計店」、 この石原時計店は大阪では老舗の時計店であり、創業は弘化3年(1846年)初代、
石原萬助が大阪心斎橋筋に和時計などを扱う「時計司」を開業したのが始まりであり、手広く時計や舶来物を一手に販売して財を成した。

 2代目、石原久之助は大阪市心斎橋通南久宝町3丁目に移転、石原時計店を開業し、当時としては非常に大きな店構えであり、時計を初め舶来品や測量機まで販売していた。
 明治22年、大阪時計製造会社設立にも関係し、明治28年には懐中時計の製造を開始、時計製造と同時に時計店として繁栄をし続け、大阪一の時計店と成る。
 その後、現在まで石原時計店として淀屋橋南西角にビルを設け、営業活動をしており、大坂井おける時計店の生き字引的存在、宣伝ビラが有効な成果を上げた良い例である。

 下の写真は同時期の名古屋の時計商が出していた宣伝、非常にシンプルな文面であり、石原商店のものと比べれば違いが判るもの。
 当時はどちらが支持されたかは不明であるが、人目を引くのは石原時計店の方、如何にも舶来品であると印象付ける宣伝。
 一方の名古屋のものは昔通りの作り方、シンプルが良いのか、分かりやすい方が良いのか、見て人が判断するもの。
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2017年08月03日

宣伝

SANY1556.JPG      明 治 の 宣 伝

 明治時代の宣伝広告の中でも時計の広告が目に付く、それも掛け時計ではなく殆どが懐中時計、当時は懐中時計は憧れの的、ステータスシンボルであった。
 明治初期、文明開化の申し子とも言うべき時計、流行の最先端を行くもの、人々はこぞって時計を買い求めようとしたが、先進な機械時計はやっぱり高かった。

 掛時計等はまだ安かった部類であったが、それが懐中時計となれば少し事情が変わってくるのも当たり前、当時の懐中時計は高価であり、ましたや金時計などは非常に高価なものであった。
 明治初期当時の総理大臣の給料が月400円であったようで、其処から察すると如何に高かったことが分かるが、それが又高いと言うことで、益々人気が高くなった。

 洋服に金時計はステータスのシンボルSANY3106.JPGとばかりに、こぞって買い求めようとしたのも、西洋に憧れた当時の日本人の気質が伺え、今も昔も舶来信仰のあらわれである。
 其の当時、日本に流入してきている時計は、外国では一流の時計会社の製品ではなく、外国では安い部類に入る時計や型が遅れた時計等、要するに流行遅れの時計であった。

 その様な時計を商社やバイヤーが安く仕入れて、発展途上の日本の市場に送り込んだ物、それを日本の人たちが飛び付いて買い求めたのも、文明開化。
 その中の一つが、スイス製の懐中時計「ターバン」、この時計ヨーロッパでも販売されていたが、向うでは三流品の時計メーカーの品、日本ではあたかも最高級の時計みたいな宣伝をしている。
 当時の時計店のカタログにも、多くの「ターバン」の時計の宣伝が記載されている事から、商社やバイヤーが大量に仕入れていた事の裏ずけではないだろうか。
 いずれにしろ、当時の時計のカタログは、その時代の流行を敏感に反応していた事は確か、人々がこの様な宣伝に踊らされていたのも事実であったようだ。

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