2019年08月14日

蕎麦回想

   郡上の平甚

 何回も出て来るがこSANY0612.JPGこ平甚との付き合いは非常に長くて、私が大学時代すでに通っていたから少なくとも50年以上になると思うが、それ以上かもしれない。
 スキー場に行く途中立ち寄っていたから、やはり大分昔の事になり、半世紀を過ぎているのだと思うと長い。
 まだ先々代が生きていたと思うが、確か頑固な親父である有名な陶芸家か訪れた際にも、順番は順番と店の外で待たせた事も、どんな有名人であろうが客として来れば順番に従ってもらう、他の客とは区別しないのも頑固親父の所以であるのだ。
 確か私が最初に行った時も、店頭の狭い蕎麦打ち場で蕎麦を作っていたと思うが、確かに頑固親父であった。
 先代とは店にある逆さ時計の話で盛り上がり、何度となく親父と時計を譲れと話を繰り返したものだが、結果は未だに手に入っていない。

 そんな親父が進めたのは以外にも蕎麦がき、親父曰く「昔の人は、この蕎麦がきを食べていた」と言う、今我々が食べている蕎麦の姿は江戸時代に入ってからだとも言うが、そんな頑固親父の勧めで、ここに来るときは蕎麦がきを食べる事にしている。SANY1021.JPG
 蕎麦がきは器の中に茹で汁をはり、湯の中に浮いているかの様な状態、この蕎麦掻を知らない人は不思議そうに見る時もある。
 わけの分からないものが出て来たかのようなそぶり、一緒に行った友人でも「なんだこれ」と聞いたくらいだ、しかしこの蕎麦がき、出し汁につけて食べると旨い、もっちりとして歯ごたえもよく、食べ進むにつれて蕎麦の味が深く、それに一人前と言うが、何だか蕎麦切りよりも量は多いようで、腹にドッシリト来るので、ざる蕎麦を食べてから、こいつを食べれば腹持ちもよい。
 平甚といえば蕎麦がき、頑固親父のおすすめの逸品だと思うが、なかなか蕎麦がきを注文する人がいないのだ、郡上の平甚に行ったなら絶対に蕎麦がきを食べることをお勧めするもので、一度食べたら蕎麦のおいしさが一番良く分かると思う。
 
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2019年08月13日

値段が知りたい

    是非手に入れたい

 古時計愛好家にとって自分の欲しい時計は是非とも手に入れたいのが人情SANY0370.JPG、人とは違った時計を欲しいと思うのもまた自然。
 古時計愛好家なら誰しも思う事、しかし現実は中々うまくは行かないもの、欲しいと思っていても手に入らないのが常である。
 それには色々な条件が重なるからだが、イザその時計が出たとしても値段がべら棒に高くて、それを手に入れられない事もしばしばだ。
 個人差もあるが、その時計の妥当な値段と言うものがあり、ソコソコの範囲であれば妥協もするが、それがべら棒に高くては手も出ないのだ。
 幾ら欲しくても自分の出せる範囲があり、それを越しての値段であれば諦めるしかないのだと思う、誰しもそんな思いをした事があるはず。
 私自身も何度か経験している事、欲しくて仕方がない時計だが、そんな値段ではとても手が出ないと、自分に言い聞かせて諦めるしかない。
 そんな事が何度もあったが、それが当たり前の世界、自分に出せる範囲は決められているから、それ以上はどうしようもないのだ。

 ある知り合いが、蛎殻町製造の時計を見つけて来て、どうしても手に入れたいが幾らで買ったら良いのかと聞いてきた。
 聞けばコレクターの持ち物だと言い、譲っても良いとの返事だが、問題は値段だと言う、先方は値段を提示して欲しいと言っているらしい。
 SANY0374.JPGそれで私に幾らで買えば良いのかとの相談らしいが、之は難しい相談でもあるから、一概に値段の提示は出来ない。
 何故ならば相手がその時計の評価をどれくらいに設定しているか、その設定値段がある程度分からないと失敗する。
 誰しも安く買いたいと思うが、相手がある事、それを無視すれば手に入らないことは察しが付き、そうかと言ってべらぼうの値段では。
 本人にどれくらいなら出せるのかと聞くしかなく、幾らなら買えるのかと逆に聞くことに、すると知り合いは世間一般の値段よりも高く買うと言い出した。
 その時計の程度は見ていないから何とも言えないが、常識的な範囲の値段を教え、それよりも少し高い値段を提示してみろとアドバイス。
 結果の話は決裂したみたいで、本人が思っていた値段と開きがあり過ぎたらしく、知人もガックリとしていたが、自分の出せる範囲以上であれば諦めるしかない。
 古時計とは需要と供給のバランスの上に成り立つもの、そのバランスが非常に難しく、運としか言いようがないものだと思う。



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2019年08月12日

盆踊り

    今年も始まった

 SANY0286.JPGこの地域の盆踊り大会がまた始まり、夕方から聞こえてくる太鼓の音、暑い風に乗って聞こえて来る。
 暑い日中から少し涼しくなる夕方、盆踊り大会がはじまるのだが、人が多く集まればやっぱり暑い、それを吹き飛ばすような太鼓の音、何故かしらこの音を聞くと涼しく思えるのは不思議、心が浮き立つためだろうか。
 人の心に響く太鼓の音、この太鼓の音は何で心に響くものだろうか、やっぱり不思議なもの、しかし心は躍る太鼓の音とは、そんな気にしてくれるものなのか、あのリズムがその様にさせるもの、それが太鼓だと思う。
 盆踊りと言えば櫓、高い櫓を組み、その上で太鼓をたたく、これが盆踊りのスタイル、そして重要なのは提灯、祭りと言えば太鼓と提灯、二つとも祭りには欠かせないものであり、どちらか一つ欠けても雰囲気が台無し。
 盆踊りと太鼓ね櫓と提灯、あとは紅白の垂れ幕があれば最高の会場となるのだと思う、昔から伝わってきたスタイル。

 日本全国で盆踊りはこの時期盛んに行われるが、これも先祖の霊を迎え、庶民が踊りを踊った事に始まる。SANY1663.JPG
 盆踊りの起源は色々な説が言われているが、盆踊りは一般庶民の楽しみでもあったようで、藩主もこの盆踊りを奨励したと言われる。
 庶民が不満を持たないようにと、捌け口の一環として盆踊りを利用して、不満を和らげたとも言われる。
 盆踊りとして大規模なものは岐阜県郡上の盆踊りが有名、その規模と人出は他地域を圧倒しているのだ、その規模はやっぱり日本一、兎に角人が多く数万人と、誰でも参加できること、それを助ける人々が多くいる事、哀愁にみちた郡上節は藩主自ら庶民と楽しんだとも言われ、それを現代まで受け継がれているのだ。
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2019年08月11日

岐阜提灯

    美濃和紙で造る
SANY1713.JPG
 提灯、歴史は古く平安時代には既にあったとされるが、一般庶民の使うものではなく、宮中で使われた。
 やはり中国よりの伝来もの、今の提灯とは形は少し違っていたもので、その後神社やお寺でも使うようになる。
 岐阜で提灯が製造されるようになるのは慶長年間、この頃から岐阜で提灯が製造され尾張藩に献上されていた。
 岐阜提灯は竹ひごが極細で繊細の造り、その上に張りと呼ばれる美濃和紙の薄い紙を張り付ける。
 この薄い美濃和紙は丈夫でありながら、灯りをともすと光が柔らかく透けて見え、上品さが引き立つ提灯。
 その提灯にやがて美しい絵が描かれるようになり、ますます洗練されて行くことになるが、現在のものとは少し違っていた、現在の姿となったのは宝暦年間の頃だと言われ、この頃には非常に繊細な提灯の姿となる。SANY1706.JPG

 職人たちは競って極細の竹ひごを使い、ますます繊細さをまし、摺り込みと呼ばれる技術を用いる事になる。
 伊勢型紙を用いて図柄を選定、この型に絵具を摺り込んで行き、ぼかしなどの技法を用い細かな絵を描いた。
 この摺り込まれた絵は灯をともすと、摺り込まれた絵が浮き上がり、岐阜提灯独特の雰囲気を醸し出す。
 出来上がった提灯は尾張藩を通して将軍家の献上品として江戸に運ばれ、岐阜提灯の名を全国に広める事になる。
 岐阜提灯は形も独特なもの、ウリ型をした上品な形は上流階級に支持されて、高級品の名を高める事に。
 しかしまだ多くは製造されず、まして一般庶民の手の届くものではなかったが、明治に入り明治天皇が岐阜に行幸された折り、岐阜提灯を掲げて迎え、この事が全国に広まり、一般庶民も憧れの提灯として広まることになり、その後岐阜提灯は大量に製造されることになる。

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2019年08月10日

明治の教科書

    時計の紹介

 新政府は改暦後、学校において時計の紹介や読み方について詳しく勉強さSANY4238.JPGせているが、それは親よりも早く時計に接する事だ、親よりも時計がよく分かった。
 新政府は外国から新たに西洋時計を大量に輸入、日本各地の公共施設に配布、近代化を推し進める意味で時計を利用した。
 勿論、役所の時間は改暦後、西洋時間となり、就業時間をキッチリと定め、時間管理を厳しくする、その一環として教科書に時計の解説を定め、子供たちから西洋時間に慣れさせるべく、教育を行ったのだ。
 当然、子供たちの方が親よりも早く西洋時間に慣れ、時計も身近なものとして接していたが、当時時計は高価であり、親たちは余り時計に接していない。
 公共施設には時計が置かれ、西洋時間となっていたが、一般庶民は昔のままの生活を続けていたのである。
 本当の意味で庶民が時計と向き合うようになったのは明治中期、一般に西洋時計が浸透し始めてからの事。

 面白い話も残っており、子供たちは学校で読み書きの学習をしているから、当然読み書きは出来るが、しかし親たちは字が読めない人も居たとの事。SANY4245.JPG
 当然、時計も時間が分からない人が居たのだと思う、それに引き換え子供たちは時間も正確に読めたのであろう。
 子供が親に時計の読み方を教えたと言う、そんな冗談みたいな話も、事実あちこちで当時は展開されていたようだ。
 嘘みたいな本当の話し、子供たちの方が逸早く文明開化の先駆けを担った事は確か、其れもまた新政府の狙いでもあったようだ。
 近代化を推し進めるのには若い力が必要であり、頭の固い大人よりも、柔らかい頭の子供の方が早く吸収するからである。
 写真は明治時代に小学校で使われていた教科書、その中の時計を紹介している文章、色々な時計をイラストにして解説をしている所、実際の時計を図にして、何時何分の読み方を一つづつ丁寧に教えている事だ、これにより子供たちは時間を正確に読めるようになる。
  
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